毎日新聞 2025/6/15 07:00(最終更新 6/15 07:00) 有料記事 1426文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷戦時中に防空作戦室があった壁の前で当時の様子を語る福田コウさん=福岡市中央区で2025年5月27日、金澤稔撮影 おどおどした表情――。そう見えたのは、第二次世界大戦末期、搭乗した米軍機が墜落し日本側の捕虜となった米兵たちだ。1945年6~8月、福岡市に拠点を置いた旧陸軍西部軍の関係者は彼らを処刑した。軍司令部にいた女性は処刑前の捕虜の一部を目撃していた。敵国人に抱いた同情と、後に惨殺を知った衝撃。100歳となった今も女性は80年前が脳裏から離れない。 福岡市博多区の福田コウさん(100)。福岡県立筑紫高等女学校を18歳で卒業し、父の知人の勧めで試験を受け、九州、四国、中国西部の防衛を統括していた西部軍へ。各地区から届く敵機の飛来情報などを伝える司令部の「情報隊員」となった。 福田さんによると、情報隊員約90人は3交代制で勤務に当たった。45年6月19日に福岡市中心部で1000人以上の死者・行方不明者を出した福岡大空襲の日は夜勤の当番だった。「誰かが『ここは危ない。兵舎に逃げてください!』と叫び、同僚たちと不発弾を跳び越えて逃げた」。空襲で司令部周辺など市中心部は焼け野原と化した。 福田さんが捕虜を見たのは、…この記事は有料記事です。残り970文字(全文1426文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>