1965年度日本シリーズ「巨人・南海戦」で巨人日本一(V9の始まり)、最優秀選手に選ばれ、賞品の自動車にまたがりファンの祝福に応える長嶋茂雄=東京・後楽園球場で プロ野球・巨人監督やアテネ・オリンピック日本代表監督を務めた長嶋茂雄さんが3日朝、肺炎で亡くなった。 長嶋さんは現役引退時の「我が巨人軍は永遠に不滅です」など、数々の名言でも知られる。 しかし編著「長嶋茂雄語録」があるスポーツライターの小林信也さん(69)は「発言のユニークさ以上に、プロ精神のすごさを示す言葉が印象に残っている」と振り返る。Advertisement 小林さんが取材で聞いた、知られざる長嶋語録とは――。長嶋さん「この本だけはうれしい」インタビューに答える作家・スポーツライターの小林信也さん=東京都千代田区で2022年6月29日、幾島健太郎撮影 小林さんは40年以上、長嶋さんを取材してきた。1983年に「長嶋茂雄語録」を出版。2021年にも「長嶋茂雄 永遠伝説」を発表した。 語録は、長嶋さんが巨人監督を退任した1980年に執筆を始めた。 「多くの長嶋ファンが失意の底にいました。ですが、長嶋さんの活躍に励まされてきた分、今度は僕が長嶋さんを励まそうという思いでした」 小林さんによると、当時の長嶋さんに関する報道では「言葉の面白さ以上に、英雄的な側面が強調されていた」という。 一方、発言そのものに注目が集まるときは「皮肉ったり、からかったりするような報じ方が多い」ことが気になっていた。 語録を書いたのは、そんなイメージを変えたいという思いもあってのことだ。小林信也さんがまとめた「長嶋茂雄語録」(河出文庫)=河出書房新社提供 「長嶋さんは一般の人に分からない理屈や感性を持っている人なんだと分かってほしかった」 出版後には、長嶋さんからこんな言葉をかけられたという。 「この本だけはうれしかった」 小林さんはこの思い出を「家宝のように大切にしてきた」と振り返る。「プロ精神」のすごみ 小林さんが真っ先に思い出すのは、プロ野球選手として観客を喜ばせるための「見せ方」にこだわる長嶋さんの姿だ。公式戦最後の日、サードの守備につく長嶋茂雄選手=東京都文京区の後楽園球場で1974年10月14日、平嶋彰彦撮影 語録から引用すると――。 <僕は、いかにヘルメットをかっこよく飛ばすか、鏡の前で練習しているんです> <三振はバッターにとって一番みにくいシーンでしょ。でも、三振しても何か光るものをお客さんに与えにゃならんと思って> <キャッチボール一つ、トンネル一つとっても、見せ場を作らないとプロとは言えない> 長嶋さんは守備の際に、股の下をボールが通過する「トンネル」というエラーをよくしていたが、それさえも「喜んでもらわないと」と話していたそうだ。 「プロ精神がすごい人なんです」おちゃめな姿 取材時にもバットを持ち大声で選手を指導する長嶋茂雄監督=宮崎市の宮崎県総合運動公園で1993年(平成5年)2月、中村琢磨撮影 長嶋さんといえば、現役時代にエラーした際に飛び出した「失敗は成功のマザー」という発言も多くのファンの記憶に残る。 こうした“おちゃめ”な一面は、取材のときにもよく見られたという。 94年、公式戦が始まる前のインタビューでの一幕。 試合前の練習が始まるからとマネジャーに退席を促された長嶋さんが、突然「アップルパイが食べたくなったなあ」とつぶやいた。 まだここにいて話したい、という意味だと感じた。 「取材者としてこんなにうれしいことはない」と感動した、と振り返る。人を育てる点でも「天才」 有言実行を地でいくスター性もあった、という。1994年=第6戦、監督初の日本一となり球場を一周する長嶋監督 巨人監督として日本一を決めた94年10月29日の西武戦の試合前日には「小林さん、あしたで決めますから」と予言して、その通り優勝を決めた。 当時、成績が低迷していた落合博満選手を中日から引き抜き、日本シリーズの試合にも起用した長嶋さんの戦略はファンから大きな批判を浴びていた。 ただ、長嶋さんは小林さんには「落合は打率2割8分、ホームラン15本は打てるだろう」と漏らしていたという。 ふたを開けると、落合選手は日本一に貢献する成績を残した。 「長嶋さんの狙い通り、選手が機能していました。一般の人にはない感性や、人を育てたりチームに火を付けたりする才能。本当に天才でした」「日本人の心をまとめた」 2004年に長嶋さんが脳梗塞(こうそく)で倒れ、闘病生活に入ってからは取材で会うこともなくなった。 「(訃報を受け)いつかこの日が来るとは思っていました。リハビリで頑張る姿を遠くから応援していました。最期まで長嶋茂雄らしく生きられたのでは、と感じています」 そして、長嶋さんの魅力をこう表現した。 「長嶋さんの輝きは、昭和を生きた日本人の心を一つにまとめる力がありました」【野口麗子】