元NHK記者高嶋光雪さん コメの価格高騰を受け、安い米国産米の輸入拡大を求める声が聞かれ始めた。終戦後、日本人の胃袋に生産過剰になった小麦を送り込んだ米国の輸出戦略を追った元NHKのジャーナリストがいる。高嶋光雪さん(77)だ。大きな反響を呼んだ約半世紀前のリポートが、「米と小麦の戦後史 日本の食はなぜ変わったのか」(ちくま学芸文庫)としてこのほど刊行された。米国の農業生産力と冷徹な戦略を知る彼は、安易な輸入解禁に警鐘を鳴らす。【聞き手・三枝泰一】シリーズ<令和のコメ騒動>9 ――著書の中で、次のようなことを書いておられますね。 日本の食料安全保障に危険信号がともり始めた戦後転換期の一つの記録としてこの本を読み、「日本の食と農を見つめ直す機会になってくれるとありがたい」と。Advertisement ◆今の「コメ不足」や価格高騰は、1970年代に始まった減反政策の帰結であるとも言えます。この本の旧版を出した79年は、米穀の流通や価格を政府が決める食糧管理制度の時代でした。端的に言えば、政府が生産者からコメを高く買い入れて、消費者に安く売り渡す。従って、消費者の「コメ離れ」とそこから来る「コメ余り」は財政赤字に直結し、政治問題化していきました。その解消を目指して、コメの生産量自体を減らす目的で導入されたのが減反です。日本人の食生活の洋風化がもたらした「必然」のように今も語られていますが、注意しなければいけないのは、この洋風化は「自然」に起きたものではない、ということです。その背景には、最初は小麦、続いて飼料用穀物の新たな販路開拓を目指す米国の生産者団体の運動と、それを支援する米国農務省との用意周到な輸出戦略があった。 ――その内容を詳細に取材されています。 ◆終戦後、それまで戦時増産体制にあった米国産小麦は余剰に直面します。ロッキー山脈に隔てられたオレゴン州など西部の穀倉地帯は流通面でも不利な立場にありました。一方、敗戦国の日本は食料難の渦中にあった。アイゼンハワー政権時代の54年に成立した「農業貿易促進援助法(PL480)」は、米国の余剰農産物を外国通貨で売ることを認めました。簡単に言えば、日本は不足するドルを使わずに円で小麦を買えることになった。また、日本が支払った代金を日本の産業基盤強化のための借款に充てることも認めました。食料増産を目指した八郎潟干拓(秋田県)や愛知用水のほか、電源開発など工業生産につながる財源にもなった。「食料と外資の一挙両得」とばかり、日本政府はもろ手を挙げて歓迎。「ワシントン詣で」を繰り返します。 ――戦勝国の「温情」のようにも見えます。 ◆彼らが冷徹な戦略を持っていたことも見逃せません。それは、コメ中心の日本人の食生活そのものを変えることにありました。PL480には、日本が払った代金を米国産農産物の市場開拓のための需要喚起に使うことも盛り込まれていました。端的に言えば「工作費」です。日本に人脈を築きます。日本人の栄養改善に取り組む厚生省や、粉食業界、製粉会社など関係する日本側の利害とも結びつきます。都市部で開催した国際見本市ではパンや菓子などが無料でふるまわれ、昭和30~40年代には小麦を食材にした調理法を紹介する栄養指導車「キッチンカー」が全国の農村を走り回りました。製パン技術者や生活改良普及員など、産業を支える人材の育成にも力を入れます。文部省はパンと脱脂粉乳による学校給食を農村部にも普及させますが、給食が導入されていない農村の児童を都市の児童がからかうような事例が起きます。今考えると悪乗りとしか言いようがないのですが、「コメを食べるとバカになる」と説く日本人の学者も現れました。 ――「胃袋からの属国化」と評する研究者もいます。 ◆高度経済成長期以降は、単に日本人の胃袋を小麦で満たすだけでなく、副食の肉への転換が顕著に表れます。食肉需要を満たす米国産の飼料用穀物輸出の急伸とパラレルに進みます。 「ホッグリフト(種豚の空輸)」と呼ばれる有名なエピソードがあります。59年の伊勢湾台風で大きな被害を受けた人々を励ますために、アイオワ州産の近代大型品種の豚35頭が米空軍機を使って日本にプレゼントされました。60年のことですが、同じ年に、その後の対日輸出の実務を担う米国飼料穀物協会が設立されます。テレビコマーシャルを使った食肉キャンペーンや、受け手となる日本の飼料産業の育成などの戦略は、小麦と同様、生産者と農務省を統合した総力戦として展開されました。飼料穀物輸入を前提としたサプライチェーン(供給網)が完成し、米国一国に依存する体制に日本は組み込まれていく。 昭和30年代、主食のコメはまず小麦に食われ、昭和40年代以降は副食である肉類に食われた、と言える状況です。冷蔵庫など家電製品の急速な普及や、「流通革命」によるスーパーマーケットの急成長も食肉消費を促しました。こうして、食生活「そのもの」が変わったのです。 ――一方で、日本人の食生活が豊かになったことは事実です。市場開拓に切り込んだ米国西部のパイオニア農民や、当時の農務省高官らへのインタビューを読みましたが、自分たちの「成功物語」を生き生きと語っていますね。「日本と相互利益の関係を築いたのだ」と、彼らは誇りに思っているようです。 ◆大谷翔平選手の存在が象徴的に映ります。この間の食生活の進化が、日本人の体位向上につながった。今や米国人選手を凌駕(りょうが)する活躍ぶりで、取材をした半世紀前には想像すらできなかったことです。日本人の食生活は確かに豊かになりました。ただしそれは、食料自給率が38%しかない脆弱(ぜいじゃく)な環境と背中合わせであることを確認したい。これも米国の戦略が日本にもたらした側面です。 ――インタビューの中で、ミネソタ州の農家出身でカーター政権時代のバーグランド農務長官が語った言葉が印象的です。当時の日本の余剰米について「もっと企業努力をして輸出をしたらどうなのでしょうか」と答えています。半世紀近くたった今も、同じ課題がテーマになっています。 ◆私にも刺さった言葉でした。パイオニア農民たちの努力を見てきただけに……。当時は食糧管理法の時代でしたが、日本の稲作は守られるだけの存在でよいのか、と考えました。市場開拓に切り込んだのは米国の生産者の団体であり、日本の農協も、もっと積極的に動くべきだと、別のところで書きました。今も続く課題であると言われれば、その通りでしょう。 ――政府備蓄米が減った分を、米国産米の輸入で賄え、という意見が聞かれます。 ◆慎重に考えるべきだと思います。米国の輸出戦略にさらされた日本の小麦生産ですが、実は60年ごろまでは捨てたものではなかった。自給率で見ると、小麦39%、大麦では104%の完全自給でした。転機は63年の大不作で、それ以降は輸入に代替され、国産小麦は「安楽死」と呼ばれる状況に進みました。 農産物貿易は「アメ」と「ムチ」に向き合うことを意味します。戦後の食料難を救ったPL480は「アメ」と言えますが、その裏には冷徹な計算があった。現在のトランプ政権が掲げる関税政策は、まさに「ムチ」です。米国の農業生産力の勢いを肌身で知る者として、一度堰(せき)を切るとどうなるか、という危惧を常に感じます。唯一とも言える自給農産物であるコメの完全自給を守るべきです。一消費者としても考えたい。たかしま・てるゆき 1948年北海道旭川市生まれ。70年京都大経済学部卒、NHK入局。「明るい農村」「食卓のかげの星条旗~米と小麦の戦後史~」「日本の条件・食糧」などを制作。ニューヨーク特派員、名古屋放送局長などを歴任した。旧著「日本侵攻 アメリカ小麦戦略」(家の光協会)は79年に刊行。 第53回毎日農業記録賞の作文を募集します。詳細はホームページ(https://www.mainichi.co.jp/event/aw/mainou/)をご覧ください。