海の特攻「回天」で散った25歳の兵士 佐賀でたどった足跡

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毎日新聞 2025/6/22 10:30(最終更新 6/22 10:30) 有料記事 4221文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷回天記念館前に展示されている人間魚雷「回天」のレプリカ=山口県周南市大津島で2024年8月15日、峰下喜之撮影 終戦7カ月前の1945年1月、佐賀県出身のある海軍兵士が特攻作戦で戦死した。搭乗していたのは「人間魚雷」と呼ばれた1人乗りの潜航艇「回天」。日本から南へ約3000キロ離れた太平洋での戦いを大々的に伝えた当時の新聞を読み、今年3月まで佐賀支局に勤務していた記者として、この兵士のことをもっと知りたくなった。終戦5カ月前、初めて報じられる 「壮絶・肉弾潜航艇出撃 必死必中の神潮(かみしお)特攻隊」。45年3月25日付毎日新聞は1面トップでこう報じた。その前日海軍省が、回天と潜水艦による「菊水隊」が44年11月に、「金剛隊」が45年1月に太平洋のカロリン諸島やパラオ諸島近海で「体当たり攻撃を敢行」と発表した。 空の「神風」、海の「神潮」。回天の特攻が報じられたのは、この時が初めてだった。 2面では出撃した士官の遺書や「かかえた稲荷(いなり)ずしの包みに喜々としている」といった出撃直前の搭乗員の様子なども載っている。戦死した28人と親の名前や略歴、古里の住所もあり、顔写真が添えられた人も多い。その中に佐賀県出身の上等兵曹、有森文吉さんの名もあった。25歳だった。 新聞が出たのは日曜日。日に日に悪化する戦況の中で、記事を読者にじっくり読んでもらい、士気の高揚につなげたいとの狙いが透けて見える。潜水艦から出撃、帰還することなく 日本軍は42年6月のミッドウェー海戦で致命的な打撃を受けた。「戦史叢書 潜水艦史」によると、43年初めごろ、若い潜水艦乗員の士官に特攻の機運が芽生えていたという。43年10月には明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」も開かれた。 そんな状況下で「甲標的」と呼ばれた特殊潜航艇の基地にいた2人の士官が、大型魚雷を改造した特攻兵器を構想。海軍省は当初、兵器化を却下したが、更なる戦況の悪化を受けて試作を命じ、44年8月、正式に兵器として採用した。 「戦局逆転」の願いを込めて命名された「回天」は、実戦に使われた型で全長14・75メートル、直径1メートル、1・55トンの爆薬を搭載していた。大型潜水艦に数基ずつ載せられ、敵の目標近くまで迫ると、搭乗員が乗り移り、潜水艦から出撃した。帰還することはない。 操縦は難しく、相当な練度を要したという。山口県・大津島に開設された基地で44年9月5日から訓練が始まったが、翌6日には事故で2人が命を落とした。基地跡にある「回天記念館」によると、終戦までに整備員らを含め計145人が戦死(訓練中も含む)し、うち搭乗員は106人だった。1945年1月、パラオ北方で戦死 当時の新聞に名前が載っていた佐賀県出身の上等兵曹、有森文吉さんは44年12月30日、ほかの搭乗員3人と共に回天4基を搭載した伊号第53潜水艦で大津島を出発。45年1月12日にパラオ北方のコッソル水道で出撃し、戦死した。 記事によると、有森さんは佐賀県能古見(のごみ)村山浦丁(現・鹿島市山浦)出身。鹿島市の知人に調べてもらうと、親族がいることがわかった。有森さんも生まれ育ったという、築100年を超える家で迎えてくれたのは、おいにあたる有森勝行さん(80)だった。…この記事は有料記事です。残り2922文字(全文4221文字)あわせて読みたいAdvertisement現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>