阪神タイガースの応援旗=三重県名張市で2025年4月、山口敬人撮影写真一覧 今年、球団90周年を迎えるプロ野球・阪神タイガース。シンボルの「虎マーク」は有名だが、生みの親が初代エースと阪神電鉄社員のデザイナーだということは、あまり知られていない。1935年の球団創設の翌年には既にポスターにあしらわれていたという虎マーク。球団の歴史にデザインの観点から迫ってみた。初代エースの母校にも… 「日本に『ブランド』という言葉が定着する前に、タイガースは虎マークやロゴをブランド化させ、90年にわたってファンに愛されてきたんです」。兵庫県芦屋市の鉄道デザイナー、大森正樹さん(58)は語る。Advertisement 大森さんによると、虎マーク誕生のきっかけは初代エース・若林忠志(1908~65年)。球団は35年12月に「大阪野球倶楽部」として創設された。チーム名が「大阪タイガース」に決まると、ハワイ出身で日系2世の若林は、母校マッキンリー高校のスポーツチームの名が同じ「タイガース」で虎のマークだったことを思い出し、球団にマークの導入を提言したという。早川源一を研究する大森正樹さん=兵庫県の西宮市大谷記念美術館で2025年6月8日、前本麻有撮影写真一覧 若林とは高校の同窓で、後に法政大アメリカンフットボール部の初代監督となる保科進(1906~2000年)が素案を描き、阪神電鉄社員のデザイナーだった早川源一(1906~76年)が図案化した。大森さんは「目の形や牙が的確に描かれ、特にしま模様のバランスが絶妙で秀逸」と絶賛する。球界随一の「美しいチケット」 早川が手がけた36年のポスター「大阪タイガース来る」(野球殿堂博物館蔵)には、既に虎マークがあしらわれている。翌37年の「結成一周年記念」の入場券は、黄と黒のしま模様をベースに赤丸内に虎マークを施した美しいカラーのチケットだ。 「当時は印刷技術が未発達。多色刷りは高額だったと思うが、タイガースは当初から美しいチケットを作り続けた」と大森さん。 戦前から現在まで数万枚の野球チケットを収集する名古屋市の会社員、山岸茂幸さん(51)も「戦前は文字だけのものが多い中、虎マークや『TIGERS』のロゴをあしらったチケットは断トツでかっこいい」と評する。縦じまユニホームの細部まで 東京出身の早川は京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)でデザインを学び、阪神電鉄に入社した。 50年代、タイガースにユニホームを納めていた「シウラスポーツ用品」(大阪市)には、早川の資料が残る。ユニホームの胸元を飾る「OSAKA」の文字をはじめ、縦じまを一本一本手描きして幅の違いを示す見本を作るなど、現在ならメーカー側に委託するような細部にまでこだわった。 61年にチーム名は現在の「阪神タイガース」に。早川は58年の退社後も球団と関わり続け、65年には「タイガース30年史」の表紙を、70年代には江夏豊投手をあしらった阪神百貨店のポスターを手がけた。黄と黒「オリジナルの強さ」 ちなみに、34年創設の巨人がチームカラーにオレンジを採用したのは53年。50年創設の広島がチームカラーを赤にしたのは75年からだ。近鉄(49~2004年)の「猛牛マーク」は岡本太郎のデザインだが、オリックスとの合併で目にする機会がなくなった。 大森さんは「猛牛マークは素晴らしく芸術作品だと思うが、どんなに優れたデザインでも生き続けることは難しいと痛感した」と話す。 2000年代になると、各球団はユニホームはホームとビジターの2種だけでなく、復刻デザインや通常と異なる色調のものを着用する機会が増える。 阪神も13年から「ウル虎の夏」と銘打って、毎年異なるデザインのユニホームを採用。緑を基調としたユニホームが登場したこともあったが、袖には黄と黒の虎マークが施され「タイガースらしさ」が失われることはない。 大森さんは東京出身の阪神ファン。小学生の頃、黄と黒の野球帽のデザインに一目ぼれしたのがきっかけという。デザイナーとしてJR西日本の車両デザインなどを手がけた経験から、鉄道社員としてデザインに携わった早川に共通点を見いだし、早川の研究をライフワークにしている。 90年にわたってファンに愛され続ける虎マーク。「改めてオリジナルの強さを感じています」と早川に尊敬の念を寄せた。【前本麻有】兵庫県の美術館で展示中 兵庫県の西宮市大谷記念美術館では「野球とデザイン―デザインで辿(たど)る阪神タイガース」を開催中。早川によるポスターをはじめ、6月に亡くなった長嶋茂雄さん(巨人)ら阪神以外の球団選手の似顔絵なども多数公開している。山岸さんのチケットコレクション、大森さんが収集した阪神の歴代の野球帽なども展示している。7月27日まで、水曜休館、一般1200円。同美術館(0798・33・0164)。