eye:ウクライナと被災地 通う心

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eye毎日新聞 2025/2/22 16:00(最終更新 2/22 16:00) 966文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷小高区の住民や昨年亡くなった夫岳紀さんと一緒にウクライナの人々と交流を重ねてきた小林友子さん。「原発事故を経験した地で、自分たちの進む道筋が見える気がした」と語る。交流会では夫の遺影と並び、ジトーミルの高校生たちとプレゼントを交換した=福島県南相馬市で2025年2月2日、和田大典撮影写真一覧 「自分の目で見て学ぶのが人生。小高の今を見て何か感じてくれるのがうれしい」 福島県南相馬市小高区の双葉屋旅館を営む小林友子さん(72)は2月、ウクライナ西部ジトーミルの高校生や教員を歓迎した。一行は災害や復興などについて学ぶツアーの一環で滞在。一緒に参加した郡山高校の生徒とは、3年前のロシアによる侵攻後、オンラインで交流を続けてきた。 小林さんは2011年3月、東京電力福島第1原発事故で名古屋に避難。そこで支援団体を通じ、チェルノブイリ原発事故の被災者たちと交流を重ねてきた。昨年亡くなった夫の岳紀さんとはウクライナを3度訪問。16年に旅館を含む地域が避難指示解除された後は、ジトーミルの消防士らを迎え入れた。Advertisement 対面での交流は、コロナ禍や戦争の影響で19年以来となり、ツアーに同行した旧知のNGO職員とも再会を喜んだ。初来日の高校生たちは交流会で、爆撃された母校の状況などを説明。空襲警報で通常の生活が送れず疲れを感じることもあるというアリーナ・マリーナさん(16)は「太平洋の海が見られてうれしかった。いろんな世代と交流でき、伝承館ではたくさん学べてよかった」と話した。 戦争で避難した日本での経験をウクライナへ大切に持ち帰った人もいる。キーウ(キエフ)出身のオレクサンドラ・ホデンコさん(23)は軍事侵攻後、大阪に身を寄せた。日本語の勉強に励み、すしチェーン店で働いたが、故郷の母親が病気になり、24年6月に帰国することになった。 来日中は広島の原爆ドームなども訪れたというホデンコさんは帰国直前の昨年5月、愛知から岩手まで徒歩で旅し、ゴールを釜石市の鵜住居(うのすまい)と決めた。キーウでの学生時代、授業で釜石東中の生徒が隣接する鵜住居小の児童と避難して東日本大震災の津波を逃れた話を知り、心に残っていたからだ。 「歩く方が人と出会って話がしやすい」と、半月で約900キロをほぼ自分の足で歩いた。たどり着いた鵜住居では資料を手に、児童たちが避難した道をたどり、亡くなった同小職員の家族や住民の願いが込められた祈念碑に見入った。 今はキーウの日本大使館で働き、旅について本にまとめるつもりだ。「ウクライナを支援してくれる日本について、旅で見て聞いたことを伝えたい。ウクライナの戦争のことも忘れないでほしいです」【和田大典】【時系列で見る】【前の記事】夫と永遠の4年間 スマトラ沖地震20年関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>