「家族4人はどこに」 子どもをおんぶできなかった女性の訴え

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毎日新聞 2025/2/25 07:00(最終更新 2/25 07:00) 有料記事 2027文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷東京大空襲で母と兄、2人の弟を失った砂田寿子さん=東京都国分寺市で2025年2月13日、三浦研吾撮影 戦争が終わり、結婚して子どもが生まれてもおんぶだけはできなかった。 東京都国分寺市の砂田寿子さん(92)は80年前の東京大空襲で母と兄、2人の弟を失った。おんぶができないのは、4人の死があまりに凄絶(せいぜつ)だったからだ。 東京大空襲80年企画「同じ空の下で」は全3回です。26日まで毎朝7時にアップします。 24日 「きっと東京大空襲と同じに」避難民が憂うウクライナ侵攻の末路」 26日 「自分もそこで生まれていたら」SNSで感じる「戦争」 身元不明や引き取り手のない空襲犠牲者の遺骨が納められている東京都慰霊堂(墨田区)にこれまで何度足を運んだことだろう。だが、4人の遺骨は今も見つかっていない。混乱の中、母の背中に炎が 「お墓には遺髪を入れました」。砂田さんは自宅のソファに座り、黒縁メガネに着物姿の母良子さん(当時42歳)の遺影を見つめて言った。 尺八奏者の父と書道を教えていた母の元に生まれた。6人きょうだいの上から3番目。国民学校(現在の小学校)の6年生だった1945年3月9日夜、警報が鳴った。進学のため、5日前に学童疎開先の千葉県神代村(現在の東庄町)から東京の本所区緑町(現在の墨田区)に戻ったばかりだった。 はぐれないように父の帯をつかみ、家族7人で長屋から逃げ出した。鉄道のガード下に向かったが、手前で行き止まりになった。周囲の家は燃え、熱風にあおられて混乱する中、母の背中に炎が燃え移った。12歳の砂田さんは持っていた座布団でたたいて必死に消火しようとした。 直後の記憶はない。気づいたときには地面に伏せてまどろんでいた。鼻がヒリヒ…この記事は有料記事です。残り1347文字(全文2027文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>