24色のペン:粛粲寶と青空子=堀井泰孝

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24色のペン毎日新聞 2025/7/6 06:00(最終更新 7/6 06:00) 有料記事 3898文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷茨城県境町の自宅で談笑する粛粲寶(左)と中山正男さん=1990年ごろ撮影(中山さん提供) 大きな三宝かんを抱えて笑顔の子ども、器からあふれそうな桃、柿……。孤高の画家・粛粲寶(しゅくさんぽう)(1902~94年、本名・水島太一郎)の企画展「やさいとくだものの幸せな世界展」が、茨城県境町の「S-Gallery粛粲寶美術館」で開かれている。館長は唯一の弟子で、時計店を経営する中山正男さん(85)。出会いから60年。師から受け継がれた絵描きの心は、その生きざまは。 粛粲寶は新潟市生まれ。18年に16歳で上京し、水産加工会社で働きながら、大倉商業学校(現東京経済大)に学んだ。20歳で洋画家・黒田清輝に師事。帝展や院展に入選した。小遣いほしさに描いた絵を、会社の役員らがポケットマネーで買ってくれた。生前、「それで一日一日を過ごせた」と中山さんに語っていた。 29歳で同郷の日本画家・小林古径に教えを請うた。しかし2年後、「古径の亜流」という美術界の評判に悩み、画業を離れ奈良の古寺・喜光寺で寄宿生活を始める。そこで仏教やお経を学んだ。 4年後の37年に帰京して活動を再開した時は、中国古典や仏法の教養に基づく文人画調に画風が変わっていた。「水がなくなったから、風呂の水をいっぱいにしていたんだ」という。充電期間だった。 墨と顔料で絵を描いて、漢詩やお経など画賛を書き、遊印を彫って押す。画賛や遊印にも機知に富んだメッセージが込められた。天衣無縫で変幻自在、おおらかで見る人を豊かな気持ちにさせる独自の作風が誕生した。 著名な画家からも会派に入るよう誘われたが、「俺は一匹オオカミになっちゃったので」と断り、画壇から離れどの会派にも属さなかった。美術大学の教壇に立たないかと誘われもしたが、「人に教えるために絵描きになったのではない」と断った。 48年ごろに東京・久我山に居を移し、妻と2男3女の子どもと暮らした。54年、雅号を粛粲寶に。粲は白く光り輝くコメ。コメを宝として粛々と生きるという意味が込められている。精力的に個展を開き、全国に愛好家が増えていった。粛粲寶を知る 中山さんは40年、境町の「幸松屋時計店」の次男として生まれた。戦後間もなくは紙が買えず、いつも道路に落書きをした。「隣の金物店の壁にガリガリ絵を描いてよくしかられた」。小学生の時に猿島郡展に入選し、画家を志した。中学時代は納税啓発ポスターで知事賞に選ばれた。ちょうど粛粲寶の雅号が誕生したころだが、当時はその存在も知らなかった。 10代後半から4年間、宇都宮で時計技師として働きながら油絵に打ち込んだ。美術家団体「三軌会」に入会し、東京都展や栃木県展に度々入選するなど腕を上げた。64年に父親が病気を患い、家業を継ぎ、所帯も持った。 中山さんにとって大きな転機が、翌65年に訪れる。東京・有楽町に…この記事は有料記事です。残り2757文字(全文3898文字)【前の記事】中皮腫治療への思い=大島秀利関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>