映画の推し事:“予測不能”高石あかりが、俳優の力を改めて認識させた「夏の砂の上」

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「夏の砂の上」©2025 映画『夏の砂の上』製作委員会 映画という媒体が登場してからそれほど長い時間がたっていない時、自分の想像力と創造力で作品を作る「監督」の権限は、文字通り「絶対的」だった。 クローズアップ、カットバックなどさまざまな映画技術をダイナミックに駆使し、「国民の創生」(1915年)や「イントレランス」(16年)など記念碑的作品を作ったD.W.グリフィスは、代表的な例と言えるだろう。Advertisement しかし映画が産業の一分野になると、製作者と監督の力関係は逆転し、画面外のものまで完璧に作られているセットを求め、ストーリーの順序通りの撮影にこだわることなどで有名だった反ハリウッド的極写実主義作家エリッヒ・フォン・シュトロハイムが、2度も撮影中に解雇されてしまったという象徴的な事件の後、その「権力の座」も揺れてしまう。演技は映像の重要な構成要素だ 一方、そのような波乱の渦中にも堅固だったのが「俳優」という存在だった。 映画は「監督芸術」と言われるが、演劇に劣らない「俳優芸術」でもあるのだ。演技は監督の考えや情緒だけを伝える道具ではなく、撮影や編集、サウンドのように映像の重要な構成要素でもある。 映画は演技を通じて、登場人物の思考と感情を観客に伝える。もちろん、登場人物の変化に富んだ姿を見せるために、多様なカメラの角度や被写体との距離、照明、ミザンセヌ、カメラワークとショットの大きさなども重要だが、これらは技術の問題に過ぎず、「コンテンツ」である演技が応じなければ意味がない。「夏の砂の上」©2025 映画『夏の砂の上』製作委員会生命力、即興と節制、リアクション それでは、俳優に必要なものは何か。イタリアの映画監督、ミケランジェロ・アントニオーニは「表現力」だと主張した。カメラの角度や距離がどうであれ、俳優はひとまず表情演技で観客の興味を呼び起こさなければならず、そのために自分の考えや悩みを演技として顔に表さなければならない。このプロセスで必要なのは、内面の生命力だ。 それとともにテクニックの面で求められるのが、即興と節制、リアクション(reaction)である。 カメラが回る瞬間、俳優は最大限の集中力を発揮し、その場に応じて即興的に演技しなければならない。そして、カメラのフレーム、すなわち画面の中で、自分の動きや表情が誇張されて見えないように節制しながら、熱量を配分しなければならない。 さらに、実際に相手役の俳優が自分の前にいるかどうかによって演技が左右されてはならないため、俳優自身が頭の中にそれなりのイメージを形象化しておく必要がある。自ら適切な時空間での状況を想像し、「リアクションの演技」を見せなければならない。「夏の砂の上」©2025 映画『夏の砂の上』製作委員会岸田戯曲賞作品の映画化 ここまで、映画史的な意味において「監督芸術」という概念が揺れたこと、それに比べて相対的に変わらない地位を守ってきた俳優・演技の重要性について説明した理由は、久しぶりにこのような映画学的常識、すなわち「本領」を思い出させる新作、「夏の砂の上」に遭遇したためだ。 濱口竜介や三宅唱に次ぐ次世代の気鋭の演出家・玉田真也が監督・脚本を担当した同作は、映画「美しい夏キリシマ」の脚本、「紙屋悦子の青春」の原作を手掛けた長崎出身の松田正隆による、読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞作を映画化した。それだけに、俳優陣に最大限の力量を求める作品であることは誰でも予想できる。 そしてこの予想は、幼い息子を失った痛みから抜け出せず、別居して彷徨(ほうこう)する妻・恵子と、造船所が閉鎖された後、坂の多い街を漂う夫・治を、松たか子とオダギリジョーの2人の名優が演じるキャスティングで早速、的中する。オダギリジョー、松たか子に劣らぬ熱演 しかし筆者としては、彼らの名演を期待する映画ファンが“想定外”の面白さを見つけられることこそ、本作の本当の楽しみではないかと思う。 それは、治の奔放な妹・阿佐子(満島ひかり)によって、ペットでも預けるように治の元に置き去りにされ、漂流していた治の人生に「同乗」する彼のめい・優子役、高石あかりの熱演である。 シノプシスだけを読んで、型にはまった演技を予想する向きもいるかもしれない。映画を見なくても頭に描くことができる人物像。似たような設定の人物が登場する作品がすでにたくさんあるから、それも無理はない。「夏の砂の上」©2025 映画『夏の砂の上』製作委員会様式に埋没しない極写実主義 だが、「夏の砂の上」で生きる意欲を失ってしまった治の前に、ある日突然現れる優子は、おてんばで個性にあふれ、その無垢(むく)さで主人公を感動させるアニメの人物のような女の子ではない。 おじさんに歓迎されないからといって萎縮することはなく、“人の家”の冷蔵庫から遠慮なく食物を取り出して食べる。彼の虚無感をもたらした悲しい過去を知っても、ありきたりな慰めの言葉をかけることもない。「門限」についてとやかく言われそうになると、ためらいなく嫌な表情をする。 予測不可能な姿を夢中で追っていくと、いつの間にか「今までの映画で出合った状況設定や、それに応える登場人物は、ドラマのために無理やり作り出されたキャラクター(character、周知のとおり「性格」という意味もある)にすぎない」と思わせるところまで導かれている。 外面的で様式的な典型に埋没しない、“極写実主義”の演技。説得力を感じさせるポイントも多い。難問に答えるような演技 いや、それどころではない。自分を好きな先輩と恋愛モードに入るのに簡単には心を許さない様子には、客席から「よくやった」と叫びたくなるほどだ。そして雨が降る日、ついにおじに向かって閉ざされていた心を開く姿は、映画が終わった後も長く響きを残す。その演技は「なかなか正解が見つからない質問に見事に答えた」とでも表現すればいいか。 役作りに表れた才能が素晴らしく、フィルモグラフィーを調べてみると、10代半ばから芸能界を志したという。2年前の夏のプチョン国際映画祭、筆者が企画した小中和哉監督マスタークラスで、出演作「Single8」を見たすべての韓国の映画ファンに初恋を思い出させた魅力的な姿は、ほんの片りんにすぎなかったのだ。(洪相鉉)