ベトナム戦争終結50周年を祝いホーチミン人民委員会庁舎(市役所)前に詰めかけた市民ら=ホーチミン市で2025年4月30日午後7時0分、庄司哲也撮影写真一覧 群馬県伊勢崎市内で人材派遣や飲食店経営などを行う「DS in Japan」社長の山本雄次さん(41)=玉村町在住=は、ベトナム戦争後の混乱の中、家族とともに祖国を逃れたインドシナ難民だった。戦争終結から50年の4月30日を、山本さんはホーチミン(旧サイゴン)市で迎えた。かつて逃れた祖国にビジネスの可能性を見いだしている。【ホーチミン市で庄司哲也、写真も】 「人があふれてすごい熱気とパワーでしょう。日本とはまったく違うエネルギーを感じる」。ベトナムの国旗の「金星紅旗」が街中に掲げられたホーチミン市内で山本さんはそう話した。市内には戦争終結50周年を表す「30/4 1975―2025」の看板があふれ、戦争を後世に伝えるベトナム戦争証跡博物館も見物客が詰めかけていた。Advertisement 山本さんはベトナム北部の港湾都市で中央直轄市のハイフォン出身。ベトナム名はグエン・バン・フン。3歳だった1986年、戦後の混乱で生じた困窮から抜け出して自由を求め、家族、親戚25人で船で出国した。目指したのは、ベトナム難民の「第一収容港」として難民を無条件で受け入れていた香港。近所の人らと10隻で出港したものの香港にたどり着くことができたのは、山本さんが乗った1隻だけだった。戦争終結50年を祝い国旗が掲げられるホーチミン人民委員会庁舎(市役所)前のビル=ホーチミン市で2025年5月1日午後3時16分、庄司哲也撮影写真一覧 4年後、受け入れ国として割り振られた日本に渡り、父の友人を頼って伊勢崎市に家族で移住した。幼かっただけに日本語の習得は早かった。両親や親戚が行政機関に行く際には通訳代わりとなり、さまざまな手続きを手伝った。それが後の起業にも役立った。 来日後、再び祖国の地を踏んだのは92年だった。一般家庭に白黒テレビすらもない時代。「直轄市のハイフォンでも郵便局があるだけ。郵便局から電話があったと通知が来て、郵便局まで出向き、再びかかってくる電話を取っていた」。当時のベトナムの1人当たり国内総生産(GDP)は180ドル程度に過ぎなかったが、経済成長によって、24年には25倍の4535ドルとなった。 山本さんは23年9月、ホーチミン市内でラーメン店「深遠(しんえん) 初代(しょだい)」を開店させた。「客は周辺のオフィスの女性が多い。少々高くてもそれに見合うサービスが求められる。だから、味や接客、店の清潔さも一切妥協しない」。北海道小樽市の有名ラーメン店にベトナムへの出店を説き、経営と現地責任者を引き受けた。2023年9月に開店した「深遠 初代」の前に立つ山本雄次さん=ホーチミン市で2025年5月2日午後3時7分、庄司哲也撮影写真一覧 看板メニューの「醬油(しょうゆ)ラーメン」は16万5000ドン(約910円)と日本並みの値段。現地でのベトナム料理のフォーなどの麺料理に比べるとかなり高価になるが、それでも客足は絶えない。現地の客は他にはない日本のサービスを求める。そうしたニーズに応えるためラーメンの調味料は日本から運んでいる。 店がある中心部のゴーバンナム通りは、かつて住宅街だったが、今では各国料理のレストランなどが建ち並ぶ。周辺にはオフィスビルも多く、昼休み時にはランチを求める人でにぎわう。日本人街といわれるレタントン通りや24年12月に開業したばかりのホーチミン・メトロの駅も近い。2024年12月に開通したばかりのホーチミン・メトロ=ホーチミン市で2025年4月30日午後5時53分、庄司哲也撮影写真一覧 ベトナムは今年、新たな国の大改革を進めようとしている。省と市を大幅に統廃合し、8月末までに現在の6直轄市と57省を半減させる。ホーチミン市は隣接するビンズオン省、バリア・ブンタウ省との統合が予定され、人口1300万人超の巨大な直轄市が生まれる。 山本さんは、日本とベトナムを忙しく行き来する。近くホーチミン市内に2店舗目となる飲食店を開店させる。戦後50年のベトナムをこう見ている。「鈍化しているという声もあるが、まだまだ成長は続いていく。ホーチミン市の巨大化など都市化が進み、所得の中間層人口も拡大する。人びとはさらに豊かな生活を求め、ビジネスの機会はこれからも膨らむはずだ」