毎日新聞 2025/6/10 14:30(最終更新 6/10 14:30) 1322文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷学生らに熱田空襲の体験を語る伊藤米子さん(左)=愛知県大府市で2025年6月9日午後0時51分、真貝恒平撮影 2000人以上が命を落とした熱田空襲からちょうど80年となった9日、名古屋市内で空襲の体験者が当時を語る講演や、犠牲者の供養が行われた。軍需工場で見た無残な光景 焼け野原で11歳の少女は行方の分からない姉を必死に捜し続けた――。至学館大(愛知県大府市)の公開授業で講演した伊藤米子さん(91)=名古屋市=は学生らに熱田空襲の体験を切々と語った。Advertisement 伊藤さんの三つ上の姉、石原照子さんは、軍需工場だった愛知時計電機(名古屋市熱田区)の工場に学徒動員されていた。 熱田空襲があった日、照子さんが帰宅せず、連絡を受けた伊藤さんは疎開先から名古屋市の実家に戻り、翌日から父らと一緒に照子さんを捜し回った。 無残な光景が目の前に広がっていた。工場の建物は爆風の影響で、ゆがんだ鉄骨がむき出しになり、至る所に性別不明の遺体が転がっていた。一日中、歩き回ったが、照子さんを見つけることができなかった。 照子さんが見つかったのは空襲から6日後、近くの川で浮かんでいたいかだの下で発見された。衣服に縫い付けられた名札で本人と分かった。 父が急いで工場へ向かったが、遺体はすでに燃やされていた。対面すらもできなかったが、「名札で本人と確認できたことが、不幸中の幸いだった」と振り返る。 あれから80年。その間、伊藤さんは名古屋市内の小中学校で教諭を務め、多くの教え子を育ててきた。 世界では武力衝突や紛争で多くの子どもたちが犠牲となっていることに胸が締め付けられる。あの日、工場で犠牲となった姉たちと重なる。 伊藤さんは最後に声を震わせながら「今も子どもたちの尊い命が奪われているが、壊滅的な被害の上に今日の平和があり、二度と戦争を起こさないために、後世に語り継いでいくことが大切」と訴えた。「戦争近づかせないために」熱田空襲の犠牲者を悼む「平和地蔵尊」前で行われた供養で手を合わせる地元住民ら=名古屋市熱田区で2025年6月9日午前10時16分、真貝恒平撮影 一方、熱田空襲の犠牲者を悼む「平和地蔵尊」前では、毎年恒例の供養が行われた。地蔵は愛知時計電機敷地内(名古屋市熱田区)にあり、1958年に名古屋市内の商店主らでつくる団体が建立。碑文には「将来の平和と安定を祈り被爆死者等の冥福を謹みて祈願する」と刻まれている。 ただ、遺族の高齢化などで供養に訪れる人は年々減少し、昨年には倒壊の恐れから存続が一時危ぶまれた。しかし、地元住民らの存続を望む声もあり、同社は地蔵の台座を低くし、歩道から約2メートル離すなど、安全対策を講じて存続させることにした。 この日は、これまで供養を続けてきた法然寺(名古屋市中川区)の住職、石原英忍さん(61)による供養が行われ、高校生を含む地元住民ら約20人が追悼。石原さんは「これからも切れ目なく語り継いでいってほしい」と呼びかけた。地蔵の存続を訴えた「熱田空襲遺跡を守る有志の会」代表の林信敏さん(78)は「戦争を近づかせないためにも戦争の遺跡と記憶を残していきたい」と語った。【真貝恒平】熱田空襲 1945年6月9日、米軍のB29爆撃機42機が名古屋市熱田区の軍需工場を目標に実施した昼間空襲。わずか8分間に265トンの爆弾が投下され、工場の従業員や勤労学徒など2068人の死者が出た。市内を襲った計63回の空襲(名古屋空襲)の中で最大の被害規模だった。【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>