合流が不調に終わり、取材に応じる中道改革連合の小川淳也代表(当時、中央)、右は立憲民主党の水岡俊一代表、左は公明党の竹谷とし子代表(当時)=国会内で8月31日、平田明浩撮影 日本の政治史に刻まれるであろう地殻変動かと思いきや、わずか8カ月でどっちらけになった。中道改革連合を巡る政界再編劇である。衆院選後に参院側に残る立憲民主、公明両党が合流する算段は、中道の大惨敗でご破算に。はた目にスッキリしないあれこれ、間近で見ていた人たちは何を思っただろう。えくぼもあばた? 何を言っても詮無いけれど、まずは嘆き節から始めよう。 「参院側2党の合流が前提とはいえ、それが頓挫してしまうと、なぜ衆院側の中道が解体なのか。歯を食いしばって頑張ってこそ、結党は『選挙互助会』でなかった、という証明になったはず。誠に残念」 元公明衆院議員で、党最長の8年間にわたり国対委員長を務めた漆原良夫さん(81)である。ウェブ政治コラム「時事放弾」で「小異にこだわって細分化するよりも、大同に就いてスクラムを組もう!」との一文を記し、後輩たちを鼓舞した。コラムは8月3日付。1カ月足らずでご破算が決定的になった。 中道は1月、高市早苗首相の奇襲ともいえる解散・総選挙に立ち向かうため、かつて与野党に分かれていた立憲と公明の衆院議員が手を携えて誕生した。だが、結果はご存じの通り。漆原さんは衆院選の負けっぷりが決定的だったとみる。 「あばたもえくぼ、の逆です。魅力があれば不満があっても我慢するが、魅力がなければ、えくぼもあばたに見えてしまうわけです。急な解散・総選挙となり、焦って一気に頂上(新党)に上ってしまった。少し拙速だったかな」。後輩たちへのモヤモヤをにじませた、というところか。 中道は荒波に放り出された難破船で、解体は火を見るより明らかだったと指摘するのは、立憲で代表代行を務めた江田憲司さん(70)。中道から出馬して落選し、政界を引退した。政界再編を訴え続けただけに、言いたいことが山ほどあるようだ。 江田さんが伝え聞くところによると、立憲のある党役員ですら、中道結党を巡る同意を取り付けたい幹部から一任を迫られたのは、それを決定する執行役員会のわずか1時間半前だった。自身は公示の10日ほど前に報道で結党を知った。 唐突に自身への一任を求めて強引に話を進める一部の幹部を「ミスター一任」と皮肉る江田さん。「旧民主党の伝統で、党内の根回しなど、組織運営のABCを知らない」と斬り捨てる。一連のごたごたを経て、公明側の衆院議員が一枚岩で復党を果たした一方、立憲側がそうでないのも何やら象徴的だといったら、言い過ぎだろうか。なぜこのタイミングか 中道の結党時に共同代表だった野田佳彦さんと斉藤鉄夫さんは、ともに1994年に誕生した新進党に所属した。自民一党支配の「55年体制」を終わらせた非自民連立の細川護熙政権でも共闘した。「新進が解党して30年近くになるけど、あの世代はケミストリー(相性)が合うんです」とは、自身も新進から初当選し、当時の空気を知る漆原さんの見立てだ。 その新進は、非自民連立の一翼を担う新生党を主導した小沢一郎さんの働きかけもあり、公明の一部や民社党、日本新党などを結集させたが、公明の参院議員らが予定していた合流を断念し、分裂の憂き目に。衆院先行、最後にご破算で、今回のごたごたとどこか似ている。 漆原さんが、その頃よりも悪条件だったとみるのは、与野党に分かれて政争を続けてきたという事実だ。長く自民と連立政権を組んだ公明は、国政から地方選までさまざまなレベルで、立憲の源流の旧民主を批判してきた。それ以前を知らない立憲側と、信頼関係という土台がないのでは、と漆原さん。そこに比例代表名簿における公明側への優遇、立憲側の落選続出も重なったということなのだろう。 それにしても、なぜこのタイミングのご破算か。江田さんは、立憲の…Google検索で「毎日新聞」の記事を優先的に表示できます。関連記事