「mentor」Ⓒ2026「mentor」製作委員会 「The other’s a non-practicing attorney living with the pain of his past--too afraid to let it go,never confronting its horror.」 (もう一人は弁護士として働くこともなく、過去の痛みを抱えて生きている。その過去を手放すことを恐れ、その恐ろしさと正面から向き合うこともない)Advertisement 子どもたちの無分別ないたずらが、生涯取り返すことのできない悲劇を引き起こす。そんなよく似た設定から始まるバリー・レビンソン監督の「スリーパーズ」(1996年)で、シェイクス(ジェイソン・パトリック)が語るナレーションだ。 ニューヨークのヘルズキッチンで育った4人の少年が犯した一瞬の過ちは、その後の人生を変え、大人になってからも加害と被害の関係に彼らを縛り付ける。「mentor」Ⓒ2026「mentor」製作委員会 吉田恵輔監督の「mentor」も、そんな物語なのだと思っていた。15年前の火災で妻の涼子を失った埜本潤(綾野剛)と、当時、火災を起こしたとされた上谷拓海(末沢誠也)、益子龍之介(磯村勇斗)が再会する。しかし物語が進むにつれ、「過去の過ちをどう償うのか」という予想可能な主題から、映画は少しずつ遠ざかっていく。大胆な造形の人物が衝突する 吉田監督の映画を何本も見てきて、以前から興味深く思っていたことの一つに、大胆な人物造形がある。吉田監督は、現実の人間をそのまま移したような自然さを必ずしも美徳とは考えていないようだ。本当にこんな人間がいるのだろうかと思うほど、ある性格や欲望を推し進めてつくり上げた人物たちを衝突させる。「mentor」の3人の男もそうだ。 拓海は謝罪すること自体に執着し、埜本と出会ってからは彼を偶像のように崇拝する。埜本の家の近くに部屋まで借り、姿見の前で「本当に申し訳ございませんでした!」と何度も土下座の練習をする。誰かが「OK」と言ってくれるまで同じ芝居を繰り返す俳優のようにも見えるが、その顔にふざけたところも狂気もない。むしろ新たに与えられた仕事を真面目に覚えようとしている人間に近い。謝罪は感情の表現を超え、彼の生活様式になっている。「mentor」Ⓒ2026「mentor」製作委員会 一方の龍之介は、反省や謝罪にとらわれることなく、アーチェリーという自分の世界を守ろうとする。最も奇妙なのは、埜本かもしれない。妻を死なせたとされた2人を許すだけでなく、その人生にまで関わり、拓海の「メンター」になろうとする。笑いと破局が同時に訪れる こうした人物造形は、今作が初めてではない。「神は見返りを求める」(2022年)を撮った際に吉田監督は、現実では成功しても変わらない人のほうが立派で付き合いやすいが、物語の登場人物としてはあまり面白くないという趣旨のことを語っている。むしろ状況によって人間が変わっていく姿、その変化が生み出す滑稽(こっけい)に興味があると。 「mentor」ではそんな嗜好(しこう)がさらに大胆になった。人物の奇妙さは単なるキャラクター設定にとどまらず、物語そのものを動かす力になる。 その作劇は、コーエン兄弟が監督した「バーン・アフター・リーディング」(08年)にも通じる。誰もが自分の論理の中では恐ろしく真剣だ。自分の置かれた状況も相手のことも誤解しているのに、少しもためらわない。そして、そんな真剣さ同士がぶつかれば、笑いと破局が同時にやってくる。 吉田監督もまた、“普通”から少しずつはみ出した3人の「奇妙な人間たち」を同じ場所に置き、それぞれが信じる論理を最後まで押し、衝突することで物語を走らせる。「mentor」Ⓒ2026「mentor」製作委員会あらわになる喪失 「mentor」はしかし、人間を簡単に説明する映画ではない。3人がつくり出す寓話(ぐうわ)的なドラマを追っているうちに、誇張されて見えた振る舞いの背後から、それぞれが抱えてきた喪失があらわになってくる。 龍之介の場合は、死んだ母親だ。過去の事件によって息子が社会から完全に孤立しないよう、周囲の視線を引き受けながら社会活動を続け、被害者である埜本にも会って、自分と息子の気持ちを伝えてきた。 龍之介が拓海のように謝罪だけを人生の中心に置くことなく、アーチェリー選手として生きてこられた背景には、彼女がつくった緩衝地帯があった。埜本と酒を飲みながら、龍之介はそんな母親を思い出して泣き崩れる。「mentor」Ⓒ2026「mentor」製作委員会 埜本の中には、涼子が生きている。若いころ、職を失った埜本とギョーザを食べていた涼子は、35歳にもなって今さら何ができるのかという彼に、「まだ若いじゃん。これからでしょ。無限の可能性があるんだから」と言う。後に埜本が拓海にかける、まさにその言葉だ。別れ際には埜本を抱きしめ、「よしよし、大丈夫、大丈夫。心配ないって」と慰める。 ここで特筆しておきたいのは、この回想を呼び込み、そして終える編集の妙だ。現在のギョーザ店から過去の埜本へと時間を渡り、涼子が去っていった場所に現在の拓海を置く。同じ空間に二つの時間を重ねるだけで、涼子は死者の思い出にとどまらず、今埜本が他人と接する方法の中へと入ってくる。人から人へ、受け継がれる言葉と関係 さて、埜本も最初から誰かを導けるほど賢明だったからメンターになったわけではない。他人の言葉にすがり、本の中に生きる方法を探しながら、涼子を失った後の時間を耐えてきた。自分が得た言葉や受け取った慰めを今度は他人へ渡していくことで、かつて涼子が埜本にしたことは、拓海や龍之介へと別の形で続いていく。「mentor」Ⓒ2026「mentor」製作委員会 そうなると、タイトルの「mentor」も、「指導者」という、「教える人」と「教わる人」が固定された辞書的な意味だけでは足りなくなる。誰かから受け取った言葉によって生き延びた人が、いつしかその言葉を別の誰かへ渡し、助けていた人が今度は助けられることもある。この映画における「メンター」は特定の一人を指すというより、人から人へ移動していく関係そのものに近い。 一方拓海は、謝罪によって自分の人生全体を組み立ててしまった。物語の中盤で意外な事実が明らかになり、過去を見るための前提が揺らいだ後でさえ、埜本にすがりつく。長年のカセから解放されたいはずだというこちらの予想とは正反対だ。むしろ、これまで自分を縛ってきた人生の秩序に執着する。そんな拓海を前に、埜本はとうとう「めんどくせえな!」と叫び、我慢の限界をあらわにする。加害と被害、謝罪と許しの先 ここまで来ると、この映画を過去の事件が現在の人生をいかに壊したのかを確かめ、その傷と対決する物語だと言うことは難しくなる。 加害と被害、謝罪と許しという関係が、もはや以前と同じように機能しなくなったとき、それによって過ぎ去った時間を説明しながら生きてきた人々には何が残るのだろう。 人は自分が結んだ関係や経験した出来事に意味を与えずに生きていくことが難しい。誰が自分を救い、誰に傷つけられ、その経験から何を得たのかを説明しながら、過ぎ去った時間を自分の人生の中に配置していく。「mentor」Ⓒ2026「mentor」製作委員会 考えてみれば、社会の中で生きるということは、無数の意味をつくり、それを共有する巨大なシステムの一部になることかもしれない。そのために私たちは、感情そのものに忠実でいる機会を失うこともある。悲しみには原因があっても、悲しむことにまで必ず意味が必要なわけではない。悲しいのなら悲しめばいい 映画の後半、それまで散らばっていた記憶と感情を一気に現在へと呼び戻す編集が、驚くべき力を発揮する。前半では奇妙な人物たちの振る舞いをつなぎ合わせて笑いを生み出していた編集が、ここではまったく別の役割を担う。 すでに過ぎ去ったと思っていた時間と感情が思いがけず呼び覚まされる瞬間、映画はそれをあえて説明も整理もしない。長い間、自らの喪失を別の関係や意味の中に埋めてきた一人の人間に、ようやく十分に悲しむための時間を与える。観客もまた、その瞬間だけは出来事の因果や関係の正しさを測ることをやめる。「mentor」Ⓒ2026「mentor」製作委員会 あらゆる関係や行為に意味を与えなければならないという強迫からしばし離れ、純粋な感情そのものに没入し、そこに力を尽くす余地が生まれる。悲しいのなら、ただ十分に悲しめばいい。 これまでの吉田監督の映画で繰り返し目にしてきたのは、人間という存在の複雑さだった。「mentor」ではさらに、その複雑さを適当に整理したり和解させたりせず、最後までくぐり抜けながら、普通のドラマではなかなか得られないほど強烈な癒やしの感覚をもたらしている。 これまでの彼の作品と確かに似ていながら、ここまで物語を結ぶ姿は新鮮だ。奇妙な3人に笑わされていたはずが、いつしか一人の人間の泣く姿を見つめながら、一緒に崩れていく。その瞬間がもたらす驚くべき癒やしの映画体験を味わう準備はできているだろうか。ならば、あなたは「mentor」に出会うべきだ。(洪相鉉)