1946年8月、葫蘆(ころ)島(現中国遼寧省)から博多港へ引き揚げてきた人たち。弘岡順子さんも、姉2人や母とともに葫蘆島から船に乗って引き揚げたという=博多港で1946年8月7日撮影 「戦後生まれのあなたには分からないでしょう」 蘭信三・上智大名誉教授(歴史社会学)は、旧満州からの引き揚げ者に聞き取り調査をすると、必ずそんな不信感をぶつけられた、と振り返る。 記者は、終戦直後に旧満州で生まれた元医師の弘岡順子さん(81)と、夫の泰正さん(80)に戦争体験の取材を重ねてきた。 順子さんの父、手塚操さんは「満州国」の若きエリート官僚だった。弘岡夫妻は、日本の植民地支配をどう振り返るのか。 「戦争体験者や遺族の語りには、ある“盲点”があります。そこに隠された、複雑な心情を理解する必要があるのです」 弘岡夫妻の語りをどう読み解くべきか、蘭さんに聞いた。【聞き手・待鳥航志】 終戦から81年。実際の体験者なき時代が迫る中、日本人の戦争観はどう変わるのか。連載「加害の記憶 戦後81年」を随時掲載します。 この記事は後編です。前編で、手塚家が語りついだ戦争体験、弘岡夫妻の戦争観を詳報しています。引き揚げ者の「不信感」 ――満州引き揚げ者の調査に長く取り組まれています。 ◆私が聞き取りを始めたのは1984年で、冷戦期でした。 当時は戦後民主主義教育の中で、日本の加害性を強調し断罪する歴史観のほうが、むしろマジョリティーでした。特にメディアや大学教員は顕著でした。 引き揚げ者に聞き取りをする際、人々が必ずといっていいほどつける「枕ことば」もあったんです。 「あなたたちには分かってもらえないでしょうけれど」というものです。 戦後の歴史家が私たち体験者の話を本当に理解できるのか。そうした不信感が大前提にありました。 そして、彼らは言うのです。 「私たちは大東亜共栄圏を信じ、五族協和を信じ、満州に理想国家を建設するために渡満した」のだと。 ――しかし、日中戦争は泥沼化し、米国や中国などの連合国軍に負ける結果となりました。 ◆敗戦前後のおよそ1年間の旧満州では、民間人だけでも推計17万人、軍人を含め24万人もの犠牲者を出しました。 中でも日本各地から移り住んだ農民たちの「満蒙開拓団」関係者は、約1年間の避難生活で7万6000人が亡くなるという惨状でした。 旧満洲には日本人155万人が渡りましたが、うち開拓団家族は22万人いました(ほかに5万人が現地召集)。開拓団の死亡率は実に34%にも上りました。 <この後の内容は> ・引き揚げの体験談の共通点 ・父操さんが受けた官僚養成教育 ・満州中央銀行の「功罪」とは ・戦後日本になじめぬ引き揚げ者 ・戦争の歴史をどう語り継ぐのか ――弘岡夫妻の話は、主に順子さんの母けいさんが語り残した引き揚げ体験が基になっています。一方、「満州国」の中央銀行の官僚として働いた父操さんは何も語らなかったといいます。 ◆順子さんの両親の語りにも、私の引き揚げ者の調査にも共通するポイントがあります。 体験者は、略奪や性暴力といった被害や、引き揚げの過酷な状況をよく語ります。 そしてその反動として、「(敗戦前の)満州は良かった」と懐かしむように語る人もいます。 一方で、日本人が現地で行った加害行為や「満州国」の侵略性に関してはほとんど出…Google検索で「毎日新聞」の記事を優先的に表示できます。【前の記事】父は国策の犠牲者じゃない 「満州国」官僚の子、揺らぐ歴史認識関連記事