ヒバクシャ毎日新聞 2026/8/4 05:00(最終更新 8/4 05:00) 有料記事 1903文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷九州産業大の学生に描いてもらった被爆絵画を手に、感想を語る林田昭雄さん(中央)=福岡市中央区で2026年7月26日、野田武撮影 岩陰から出た瞬間、目に飛び込んできたのは、赤ちゃんを抱いたまま地べたに座って息絶えた女性の後ろ姿だった。母親であろうその女性の背中の服は焼け、やけどした肌が見えていた。 1945年8月9日、長崎で暮らしていた当時6歳の記憶だ。 林田昭雄さん(87)=福岡市=は2026年1月、九州産業大(福岡市)の学生たちを前に被爆経験を語った。人前で話すのは、ほぼ初めて。 2006年10月に始まった記録報道「ヒバクシャ」は今年で20年を迎えます。今回はヒバクシャをそばで見守る人、関わりのある人たちの思いも交えながら、自分と変わらない「普通の人」である彼ら彼女らが高齢を押して証言する原動力を描きます。対話経てキャンバスに「あの日」表現 「焼けて皮膚にくっついた服からまだ煙が出ていた」と女性の様子を説明すると、芸術学部3年の児玉彩佳さん(20)は「林田さんが記憶しているようなやけどを私は見たことがなく、衝撃を受けた」と語った。 学生との対話は、同大が22年から毎年実施している被爆者の証言を絵画で「描き継ぐ」プロジェクトの一環。児玉さんと同学部3年の引尻莉子さん(20)は2人で縦53センチ、横45・5センチのキャンバスに、この女性を描いた。 「お母さんは子どもをかばいたかったのだろう」。林田さんの脳裏に最も深く刻まれた女性の姿を聞き取り、児玉さんたちは、4、5色の油絵の具を何層も重ね、やけどした肌の立体感を出し、縁を黒色で表現していった。 普段からドキュメンタリーを見て戦争の実相に関心がある児玉さん。林田さんの話に「女性や子どもなど関わりの無い人たちに被害を与える戦争の残酷さが伝わった」と想像力をかき立てられた。弁当を広げようとして…… 林田さんは中国・上海生まれ。45年5月、父親を現地に残し、弟を身ごもった母親と3歳下の妹と共に長崎に引き揚げ、母親の親族が用意した長崎市稲佐町の家で暮らすように。8月9日は、近所の子どもらと家から歩いて数分の公園(現在の稲佐児童公園)に遊びに行っていた。 弁当を広げようとしたその時、飛行機の音が聞こえた。引率の女性に手を引かれ、子ども1人が入れるくらいのくぼみのあった岩に隠れた。女性は「今、日本で飛ぶ飛行機はないのにおかしい」とつぶやいていた。 公園は爆心地から約2キロ。防空頭巾の上から頭を手で押さえ、小さくなって耐えた。強烈な音に体が震えた。「助けて」「助けて」。周囲で声が聞こえ始めた。怖くて岩陰から出ることができなかった。 1時間くらいたっただろうか。「昭雄、昭雄」。捜しに来た母親の声に気づき、岩陰からそっと出た。一緒に遊んだ子どもたちも、さっきまで手を引いてくれた女性もどうなったか分からない。そこで見たのが赤ちゃんを抱いた女性の後ろ姿だった。 記事はこの後、林田さんが学生たちの描いた絵に感じた思いに迫ります。 林田さんは両足首にやけどを、母親は顔にガラスが刺さるけがをしながらも一家全員生き延びた。しかし、妹と被爆の翌月に生まれた弟は、それぞれ40…この記事は有料記事です。残り648文字(全文1903文字)【前の記事】一滴の水がいつか… ゼレンスキー大統領に被爆者が伝えたこと関連記事【最新記事】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>