フィリピン残留2世の苦悩 DNA鑑定で「父子」でも法律の壁

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毎日新聞 2026/6/21 11:00(最終更新 6/21 11:00) 有料記事 3369文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷就籍を求めるロサ・コリアス・アンティプエストさん(中央)を囲んで談笑する川畑博昭・愛知県立大学長(左)と北村賢二郎弁護士=フィリピン・ダバオ市で2026年3月(フィリピン日系人リーガルサポートセンター提供) 「日本人は正直で、勤勉だ。その血を継いでいることに誇りを感じているからこそ、私は日本人として認められたい」 太平洋戦争で日本人の父と死別や離別しフィリピンに残された残留日系2世。その日本国籍を取得し戸籍をつくる「就籍」活動が危機にある。 立ち塞がるのは「法律上の親子」であることを示さねばならないという要件。父母の婚姻や認知の記録が失われ、DNA型鑑定で父との血縁関係を認められた人ですら司法の場で退けられている。この国は81年たってなお残る戦禍とどう向き合うべきなのか――。 <主な内容> ・父への尊敬と「そっくり」の言葉。その宝を胸に生きてきた彼は ・法律の壁との戦い「私はセイキチ・カナシロの本当の子どもです」 マニラ首都圏に住むセチョ・ブロロン・カナシロさん(81)は1944年10月、フィリピン中部で4兄弟の末子として生まれた。 フィリピン人の母やおばに聞かされた話では、父は沖縄から渡航し、日本あめの製造、販売をして暮らす中で母と知り合った。3人の兄はキヨマサ、キヨミツ、アキオと日本名を付けられた。戦争が始まると日本軍の軍医の下で働くようになり、45年に尿路感染で亡くなった。 両親の婚姻記録やセチョさんの出生記録など役場の文書は戦時下の混乱で失われた。ただ地元の教会の洗礼記録には父の名が刻まれていた。 助産師の仕事もして地域の人に信頼されていたという父は誇りだったが、フィリピンでは戦後、反日感情が渦巻いた。セチョさんは「ハポン(日本人)」とあだ名され、周りの子どもからいじめられた。顔にあざができるほど殴られたことも。親族の勧めで、小学4年生以降は身を守るためフィリピン名を名乗った。再びつながった縁 父には同じく日本から渡ってきた…この記事は有料記事です。残り2642文字(全文3369文字)あわせて読みたいAdvertisement1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>