「日本人とは」薩摩焼陶工の若き日の苦悩 司馬遼太郎が示した道

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ストーリー社会最新記事毎日新聞 2026/7/12 15:00(最終更新 7/12 15:00) 有料記事 2106文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷登り窯の色見穴を開けて火の状態を見る十五代沈寿官さん=鹿児島県日置市で2026年3月12日、矢頭智剛撮影 一夜かけてたき続けた窯は1200度に達しようとしていた。その高温は、もはや火山の噴火で流れる溶岩流と変わらない。火口(ひぐち)に近寄るとすさまじい熱気だ。職人が投げ入れるまきはすぐ炭になり、火は勢いを増していく。 「1200度までは技術で上げられるんですよ」。作業を見守る窯の主、陶芸家の十五代沈寿官(ちんじゅかん)さん(66)が事もなげに言った。「難しいのはそこから1280度まで上げるところ。知恵と体力、経験を振り絞って窯と対話できるか」。たき過ぎると焼き物に塗った釉薬(ゆうやく)が溶け、足りなければ焼成しない。いずれにせよ商品にならない。 全2回の前編です。後編へのリンクは文末に沈家の数奇な歩み 司馬遼太郎さんも材に 鹿児島県日置市の陶苑「沈寿官窯」。3月のこの日は年数回の「窯だき」の日だった。電気やガスの窯が普及する中、沈寿官窯が使うのは全国でも残り少ない「登り窯」。燃え盛る炎と向き合う沈さんらの姿は、沈家15代の歩みを描いたドキュメンタリー映画「ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―」のクライマックスシーンにもなった。 沈家は豊臣秀吉による2回目の朝鮮出兵(慶長の役、1597~98年)で出征した薩摩の大名、島津義弘が連れ帰った朝鮮人陶工の一族だ。望郷に駆られながら窯を開いた初代・当吉以来、4世紀を超えて薩摩焼を作ってきた。末裔(まつえい)の沈さんが家督を継いで27年になる。 沈家の数奇な歩みは、作家の司馬遼太郎さんが沈さんの父、十四代沈寿官さん(故人)に材を取った小説「故郷忘じがたく候」で知られるところとなった。慶長の役当時、貴族の地位にあった沈家の先祖は朝鮮半島の南原(ナモン)(韓国・全北道)で島津の兵に捕らえられ、現在の沈寿官窯がある日置市東市来町美山の苗代川地区にたどり着いた。「よほど、運動神経が鈍かでしたろうな」。十四代は捕まった先祖の話をする際、愛嬌(あいきょう)を込めて司馬さんに語ったという。 島津をはじめ、朝鮮に出兵した大名がこぞって陶工を連れ帰ったのは、当時の日本にない高い作陶技術を求めてのことだった。佐賀の有田焼や山口の萩焼、長崎の波佐見焼、福岡の上野(あがの)焼も朝鮮人陶工が関わっている。焼き物といえば土器ぐらいしかなかった薩摩の地で、苗代川の陶器は宝石に等しかった。 島津家は陶工らに士分を与えて厚遇し、陶器を作らせた。沈家は薩摩焼の名を海外まで広めた十二代沈寿官(1835~1906年)を出すなど隆盛。戦争で貧窮しても窯の火を絶やさず…この記事は有料記事です。残り1059文字(全文2106文字) 後編につづく 大壺に宿る420年超の歴史 沈家十五代は日韓つなぐ「語り部」あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>