テラ・クライシス:脱ホルムズの行方 「油をくれ」だけで進まなかった交渉の切り札

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テラ・クライシス毎日新聞 2026/7/7 06:00(最終更新 7/7 06:00) 有料記事 2477文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷サウジアラビアのファイサル外相(右)との会談に臨む赤沢亮正経済産業相=サウジアラビアで2026年5月4日(経産省提供) 5月初めでも、中東の気温は40度に達しようとしていた。 赤沢亮正経済産業相は、サウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)を相次いで訪問し、原油を巡る交渉に臨んでいた。 米・イスラエルとイランによる戦闘が2月末に始まり、原油輸送の要衝であるホルムズ海峡が封鎖されてから2カ月。調達先の9割超が中東だった日本は、新たな「争奪戦」を制する必要に迫られていた。 4月は、国内で必要な量の4分の3を、民間と国による備蓄の放出でしのいだ。 備蓄は3月時点で8カ月分残されていたが、頼り続けることは避けたい。 割高な米国産の輸入を大幅に増やしたものの、国内の混乱を避けるには、43%を依存してきたUAEと、39%を頼っていたサウジの原油を、ホルムズ海峡を避けながら仕入れる必要があった。 <9割を超える中東依存度。今後はどうすべきなのか。2人にインタビューしました> ・脱ホルムズで出光社長が語る本音(8日朝アップ予定) ・田中角栄氏の95歳元秘書官が語る中東依存の理由(8日夕アップ予定)頼みは地上パイプライン 頼みの綱は、両国がそれぞれ地上に整備するパイプラインだった。 サウジには領土を東西に横断する長さ1200キロのパイプラインがある。それを使えば、ホルムズ海峡を通らずに紅海から輸入できた。 UAEにも、海峡を迂回(うかい)して運び出せるルートがあった。 ただパイプラインの輸送量には限界がある。他国との争奪戦を制して優先的な調達を実現するため、日本政府は交渉に、ある「切り札」を持って臨んでいた。中東依存のきっかけは… 原油の中東依存は、戦後間もなく始まった。 欧米メジャー(国際石油資本)が中東で大規模な油田開発を進め、割安で提供できるようになった。その大口の供給先となったのが日本だった。 1955年ごろからの高度成長期の経済発展も中東産原油が支えた。60年代には依存度が8割を超える。 岐路は70~80年代の2度の石油危機だった。 「調達先の多様化を目指し、中国やインドネシアからの輸入を増やした」(経産省OB)。 78年には国の備蓄も始まり、中東依存度は81年に7割を切った。 その後、中国とインドネシアは経済発展で内需が増え、原油を輸出に回せなくなる。 90~2000年代には輸入国に転じた。日本の中東依存が再び進んだ。 「コストと量で中東産に及ぶ調達先はなかった。日本の製油所の設備も中東の油質に合わせていた」 第1次石油危機時に田中角栄首相の秘書官として対応に当たった小長啓一さん(95)は振り返る。 転機はあった。韓国では輸送費…この記事は有料記事です。残り1405文字(全文2477文字)【前の記事】日本企業はイラン復興に参画を 高橋和夫氏がみる石油確保の道筋関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>