キャンパる:称賛、非難、再評価…時代の変化で移りゆく「戦争記録画」の評価

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独特の画風の裸婦像などで1920年代のパリ画壇で名声を確立し、今日もなお高い人気を誇る藤田嗣治(右)には、従軍画家というもう一つの顔があった=1940年撮影 日本の絵画史の中で、「戦争協力」という汚名と「貴重な歴史的記録」という称賛の、相反する評価を受ける、忘れてはいけない作品たちがある。軍国主義の時代、軍部の要請などによって描かれた「戦争記録画」だ。そんな作品たちは、戦中、そして戦後にどう扱われたのだろうか。また、今を生きる私たちは作品から何を学べるのだろうか。【日本大・二瓶葵(キャンパる編集部)】国民の戦意高揚に一役 「戦争記録画」とは、戦地に赴かない国民の戦意を高揚させるため、派遣部隊に同行した「従軍画家」と呼ばれる画家たちが、戦争の様子を記録した作品のことを指す。戦況が悪化すると、現地には向かわずに制作した画家も存在した。Advertisement 1937年に日中戦争が勃発し、38年に国家総動員法が施行されて日本は戦争にのめり込んでいく。その時期に、国内の士気を高めたい軍部の要請や依頼を受ける形で、戦地に赴く従軍画家が増えていった。 軍の作戦遂行に美術界として協力する目的で設立された大日本陸軍従軍画家協会から改組される形で、39年に陸軍美術協会が設立された。同協会は従軍画家たちを束ね、戦争記録画の展示会や関係書物の出版などに取り組み、国民の戦意高揚に一役買った。日中戦争のさなか、日本軍が侵攻、占領した中国南部・広東省を訪れた藤田嗣治(右から2人目)=1942年、阿部徹雄撮影従軍画家としての藤田嗣治 同協会の発足時で200人を超えていたとされる従軍画家たちの中で、最もよく知られているのが藤田嗣治(68年、81歳で没)だろう。藤田は1886年に東京で生まれ、20年代に滞在したフランスのパリで「乳白色の下地」の裸婦像など独自の画風を確立し、ヨーロッパの美術界を席巻した。その後は日本とフランスを往復する暮らしをしたが、日中戦争勃発後、日本滞在中は従軍画家として活動した。 現在、153点の戦争記録画を収蔵する東京国立近代美術館の大谷省吾副館長は藤田の印象について「承認欲求の強い人物だったのかもしれない」と語る。大谷副館長によると、藤田はパリで画家として成功するために、西洋の技法をまねるのではなく、自らの日本人としての独自性をアピールする方法を選んだ。そこに藤田のマーケティング戦略があったのだという。海軍の6画伯壮行会。前列左端が藤田嗣治=1938年撮影 それは従軍画家になってからも変わらなかった。藤田にとって、戦争記録画を描く目的は戦争協力だけではなかった。「パリでの高い評価に比べて、藤田は帰国後の日本での評価に満足していなかった。戦争記録画を通じて世の中の役に立ち、日本でも認められたいという思いが強かったのではないか」と大谷副館長は語る。 他の従軍画家たちも事情は似通っていた。富国強兵が叫ばれる時代に画家は「役立たず」とののしられるほど世間の評価は厳しく、そんな世の中の風潮も画家たちを戦争協力に駆り立てる要因の一つとなった。海軍の記念館「海軍館」に展示された藤田嗣治の戦争記録画に見入る人々=1939年撮影評価が急変した「アッツ島玉砕」 藤田は38~42年、中国やマレー半島などの戦地に派遣され、多数の戦争記録画を残した。その中で最も知られているのが43年に発表された「アッツ島玉砕」(縦193・5センチ×横259・5センチ)だろう。北太平洋のアッツ島で死闘を繰り広げた日米両軍の兵士の死体が折り重なるさまを描いたこの作品は、当時の人々の胸を締め付けた。 発表当時の新聞や雑誌では、展覧会に押し寄せる群衆が涙を流して手を合わせたと記されている。大谷副館長によると、作品の横に藤田が直立不動で立っていると、さい銭が投げられ、藤田が敬礼して応えたというエピソードを、画家・野見山暁治が語っている。絵画制作に取り組む藤田嗣治=1935年撮影 しかし、その評価は戦後に180度変化した。画家たちの間で藤田は戦争に協力した責任を問われ、「アッツ島玉砕」も、愛国心を高め、復讐(ふくしゅう)心を植え付けるための国策宣伝作品として、非難の対象となった。 藤田の描いた14点を含む戦争記録画は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に接収された。70年に無期限貸与という形で返還されたものの、終戦後に非難を浴びたいきさつもあり、その後も彼の回顧展では展示されなかった。藤田は糾弾された末にパリに戻って日本国籍を手放し、68年に波瀾(はらん)万丈の生涯を終えた。戦争記録画は発表当時称賛を集めたが、戦後は一転して批判を浴びた。ただ近年はまた変化して、タブー視する風潮は薄れつつある。東京国立近代美術館の大谷省吾副館長は「来館者の反応の変化には驚かされる」と話す=東京都千代田区で、千葉大・三浦由梨乃撮影作品の迫真性が再評価 それから40年近く経過した2006年、同美術館で生誕120年を記念して、戦争記録画を含む藤田の全画業を紹介する回顧展が開催された。 大谷副館長は、その際の来館者の反応に「非常に驚かされた」と語る。大々的に公開された「アッツ島玉砕」を鑑賞した人々は、作品を批判するのではなく、描かれたむごい戦場の姿を見て、戦争の悲惨さを嘆いたのだという。観覧者の感想でも「藤田はきっと反戦の気持ちを込めて制作したはずだ」という声が多かった。 大谷副館長は「長らく批判されてきたこの作品の評価の変化には、時代の移り変わりを感じた」と話す。つまり「アッツ島玉砕」が描かれた当時の社会状況を直接知る人たちが減っていく中で、もともとあった「復讐心を植え付ける」という側面が忘れられ、戦死者を悼む側面にばかり注目が集まったというのだ。 美術史的にも、戦後の自由主義の価値観のもと、造形的な革新性とは無縁な戦争記録画は評価の対象外だったが、平成以降に阪神大震災や米同時多発テロなどの経験を経て、美術と社会との関係について見直そうとする風潮とともに、戦争記録画に対する見方も変わってきたのではないかと大谷副館長はいう。「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展(2025年 東京国立近代美術館)の展示風景。左手奥に展示されているのが「アッツ島玉砕」(同美術館収蔵、米国より無期限貸与)=撮影・木奥恵三(同美術館提供)美術は戦争にどう向き合ったか 東京国立近代美術館は昨年、1930年代から70年代にかけての戦争にかかわる芸術作品と資料を集めた「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展を開催。同展には、24点の戦争記録画も展示された。戦後80年の節目の年に開催されたこの展示は、「美術は時代を映す鏡」というテーマで、戦争に対する美術の向き合い方に焦点を当てた。 戦争記録画の展示については来場者から多くの感想が寄せられた。不快感を示す意見もあったが、「当時の戦争推進の意識を相対化できる素晴らしい展示だった」など、好意的な反応も多かったという。 さまざまな来館者が訪れる展示で同美術館が重要視している点は「断定しないこと、客観的な説明であること」の二つだと大谷副館長は指摘する。かつて戦争賛美の世論を高めた戦争記録画であったが、その追体験をさせるのではなく、異なる立場の視点から鑑賞ができるよう、作品そのものだけではなく、当時の報道資料なども多数展示することで、考える余白を残したという。153点の戦争記録画を収蔵している東京国立近代美術館。戦争記録画は太平洋戦争後、GHQに接収されたのちに、1970年、「無期限貸与」という形で日本に戻され、同館で管理するようになった=同美術館提供展示の今日的意義と美術館の役割 また同展は大々的な宣伝を行わずに開催した。当初はメディアと組んで大きな展覧会にしようと考えていたという。しかし「戦時下の作品を一人一人に考えてほしいという意図とは離れ、作品の持つ国策宣伝性を発信する事態になってしまうことを危惧し、取りやめた」と大谷副館長は打ち明ける。 また大谷副館長は「当時の戦争はメディアとは切り離して考えられないということも知ってほしかった」と話す。戦時中、一般の国民は空襲を受けるまで新聞やラジオなどを通してしか、戦争を知ることができなかった。さらに報道で得られた情報によって、戦争記録画に熱狂した。「当時のメディアが戦争記録画を利用した事実を忘れてはいけないと考えた」という。宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」を見る米下院議員団。軍国主義を扇動すると接収された=1946年撮影 同展では、展示を鑑賞していくうちに、作品は戦後のものへと移り変わっていく展示構成が施された。あえて戦後の作品を展示した理由を尋ねると、「戦後に大衆の価値観が180度変化したことも伝える意図があった」と大谷副館長は答えた。戦中について考えることと同じくらい、戦後どのようにアジア・太平洋での戦争について考えてきたかという変化を示したかったのだという。 取材を通して大谷副館長は「考え続けること」の重要性を繰り返し述べた。「美術館は戦争記録画を展示することで、戦争や従軍画家たちへの受け取り方を誘導しているわけではない。戦争とはどのようなものなのか、戦争と美術の関係とは何かを考える場を提供している」のだという。「若い世代は戦争記録画の芸術性にひかれ、かっこいいと思ってしまう場合も多い。その際にもなぜひかれたのか考えることをやめずに、異なる立場の視点をもって鑑賞してほしい」と、力を込めて語った。