毎日新聞 2026/9/5 17:00(最終更新 9/5 17:00) 有料記事 2924文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷(写真上から時計回りに)めはりずしと鹿肉とイノシシ肉のしぐれ煮いなり、鹿じゃが、鹿とイノシシの唐揚げ、ハマグリの黄身酢がけ=大阪市阿倍野区で2026年8月20日、梅田麻衣子撮影 大仏建立を決意した聖武天皇はその年に東国行幸に出発し、恭仁(くに)京(京都府木津川市)に遷都。4年半も平城京(奈良市)に戻らなかった。彷徨(ほうこう)の真意は何だったのか。聖武天皇の行路にあたる三重県のジビエを味わいながら、マグマ学者の巽好幸さんと解き明かしてみよう。「美食地質学」第40講となります。シリーズはこちらから読むことができます。決意表明あり、パフォーマンスあり… はしかパンデミックや地震、内乱と、災厄がうち続き、仏教にすがった聖武天皇が、河内の智識寺(大阪府柏原市)で盧舎那仏(るしゃなぶつ)を拝んで感銘を受け、大仏を造ろうと考えたのが740年2月。その算段にかかろうという矢先の8月、藤原(ふじわらの)広嗣(ひろつぐ)の乱が起きる。 律令政治を主導して国の土台をデザインした藤原不比等(ふひと)の息子たち「藤原四子」がパンデミックでみんな亡くなり、大宰府に左遷された孫の広嗣が「天皇の側近の排除」を求めて兵を起こしたのだ。その2カ月後の10月、聖武天皇は「思うところがある」と東国行幸に出る。まだ乱は鎮圧されていないのにだ。巽「乱は鎮圧の見通しが立っていたんで出発した。仏教を中心にした鎮護国家をつくるため、次のステップに早く進みたいわけです。でも、弓を引いたのは藤原氏。平城京はどこを向いても藤原氏だらけで、いつ寝首をかかれるかわかったもんじゃない。とにかく平城京を離れたかったんやと思う」 皇后の光明子(こうみょう…この記事は有料記事です。残り2305文字(全文2924文字)あわせて読みたいAdvertisement1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>