映画の推し事:ふすま1枚で時代を超える 「ホーム スイート ホーム」に見た日本映画の魅力

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「ホーム スイート ホーム」Ⓒ2026映画『ホーム スイート ホーム』製作委員会 日本で人の家に招かれると、かなり気を使う。招く側が実家に暮らしている場合なら、なおさらだ。居間として使われる和室に座ってお茶を飲んでいると、ふと目に入る壁の写真。そして仏壇。「今日」と共存している「昨日」。 時には1000年にもなろうかという長い時の流れのなかに連なる家族の歴史と出合う、どこか厳粛ささえ感じさせる瞬間である。まさか、それがエンターテインメントの題材になるとは想像もしなかった。Advertisement 「ホーム スイート ホーム」は、古い一軒家を舞台にしたタイムトラベルコメディーだ。金沢知樹が2006年に初演した舞台劇を、20年を経て映画化した作品である。4世代が27歳で勢ぞろい 代々受け継いできた店と家を手放そうとしている男の前に、ある日、自分たちは彼の息子と孫だと名乗る2人の男が現れる。 未来から来たという彼らが時を超えてきた通路は、家の中の押し入れである。そして彼は、息子と孫に連れられて、自分の父親を訪ねることになる。年齢はそろって27歳。曽祖父からの4世代が、同い年で一堂に会するというわけだ。 設定から自然と思い浮かぶのは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だ。だが、この映画にはデロリアンも未来都市も登場しない。その代わりカメラは和室と食卓、柱と部屋を仕切る敷居がひと目で見渡せるところまで引いて構える。日本家屋の間取りそのものが喜劇の舞台装置になる。ふすまは開いては閉まり、人が現れては消え、一方で起きている騒動をもう一方の人物は知らない。 吉川鮎太監督は原作を映画ならではの方法へと押し広げていく。敷居は一つの画面を小さな舞台に分け、手前と奥の部屋は異なる情報と動きを同時に抱え込む。人物を同じ空間ですれ違わせ、遅れて互いの存在に気づかせる。舞台ゆえの制約を軽快な映画的リズムへと変えてしまう手腕が見事だ。押し入れがつなぐ数十年 若い俳優たちの起用も魅力的だ。その空間とかみ合っている。八村倫太郎、増子敦貴、駒木根葵汰、前田公輝らスター性を持つ俳優を、一つのフレームのなかに置く。順番にクローズアップするのではなく、アンサンブルの一員として動かしていく。誰がどこに立ち、いつ入ってきて、いつ出ていくのかが、セリフと同じほど重要になる。「ホーム スイート ホーム」Ⓒ2026映画『ホーム スイート ホーム』製作委員会 歳月の見せ方にもしゃれが利いている。湯飲みや新聞の日付、壁に掛けられた写真といった一見何でもない品々が、それぞれ異なる時間を教えてくれる。 特に、押し入れのふすまに記された漢詩が秀逸だ。杜甫の「聞官軍収河南河北」で帰郷の喜びを詠んでいた言葉が、いつしか王維の「送元二使安西」、旅立つ友にもう一杯の酒を勧める別れの詩へと変わっている。一方は帰郷へ、もう一方は別離へ。漢詩が入れ替わるそのふすまは、単なるタイムマシンの出入り口ではなく、誰かを迎え、そして再び送り出すという家が昔から担ってきた営みと重なっていく。 家とはもともと、いくつもの時間が一緒に暮らす場所ではないか。過去が消え去ることなく現在の暮らしのなかに存在しているという意味で、実家そのものが一種の時間装置なのだ。 「ホーム スイート ホーム」は、押し入れの小さな扉1枚で数十年をつなぎ、SFの想像力を日々の暮らしの大きさにまで引き寄せた。そしてその小さな扉をくぐって映画が出合うのは、家族の時間だ。許されるひとときのファンタジー タイムトラベルは、先に逝った人を生き返らせるわけでも、過ぎ去った人を現在につなぎ留めるわけでもない。ただ、自分が知ることのできなかったその人の時間を、ほんの少しだけ見せてくれる。 そういう意味で「ホーム スイート ホーム」は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だけでなく「フィールド・オブ・ドリームス」にも近づいていく。かなうことのない家族との出会いを、ファンタジーがほんのひとときだけ許してくれるからだ。「ホーム スイート ホーム」Ⓒ2026映画『ホーム スイート ホーム』製作委員会 とりわけ面白く響いてくる言葉が「父」である。 私たちは父を初めから父だった人のように記憶している。だが、彼にも息子だった時間がある。そして息子がまた子どもを持ち、生きていくなかで少しずつ父になっていく。 しかし27歳の姿で並んだ4世代の男たちの間には世代による序列が消え、「父」は1人の人間に永遠に貼り付いていた名前ではなく、人生のある時期に引き受けた役割として見えてくる。不器用でおかしくて、欲望も持った1人の人間へと戻っていく。映画はそんな単純な事実を、騒動と笑いのなかから見つけ出し、観客の胸をいつの間にか熱くさせる。 家族の歴史とは、互いに見ることのできなかった時間を想像することでもある。家と家業を受け継ぐこともまた、自分自身をその時間の流れのなかに置くという選択なのだ。木下恵介の大衆性と映画性 ここで木下恵介を思い出す。叙情と涙の監督として記憶されがちだが、その映画は一つのジャンルや方法論にとどまらず、実験的な試みを重ねながらも観客に愛されることを大切にしていた。 「ホーム スイート ホーム」も、その系譜を思わせる。タイムトラベルにスラップスティックを掛け合わせ、若い俳優たちをアンサンブルとして束ねながら、その真ん中にあるのは、家族と家業を受け継ぐという古典的な価値。大衆性と映画性のあいだに、境界線を引かないのだ。 舞台劇の可能性を娯楽映画として実現したのは、プロデューサーの井上竜太の力である。「パレード」や「白夜行」、「あちらにいる鬼」や「夜明けのすべて」を企画、プロデュースしてきた彼のフィルモグラフィーは、一つの色ではくくれない。「ホーム スイート ホーム」Ⓒ2026映画『ホーム スイート ホーム』製作委員会 井上は監督のパートナーとなり、映画が生まれるプロセスそのものを創作として引き受ける。製作を管理するプロデューサーというより、「クリエーター」に近い映画人である。見慣れたものから新しさをくみ出す力 「ホーム スイート ホーム」は、受けを狙った娯楽要素に古典的な家族劇を掛け合わせただけの安全な作品ではない。家族と世代、死と記憶、継承という重いテーマも抱えている。「あちらにいる鬼」のように、人間の欲望や暗い顔を描いた作品もまた彼の世界にある。 暗い現実を知ったうえで、映画をどこへ向かわせるのかを選ぶ。井上にとってヒューマニティーは前提ではなく、選択なのだ。その選択は観客へと向かう。木下が観客に愛されることを芸術的な妥協と考えなかったように、井上もまた、自らが信じる価値と娯楽映画を切り分けない。本作の笑いはヒューマニティーを伝えるための包装紙ではない。観客の心へ入っていくための道そのものなのである。 日本の映画人と話していると、韓国映画を羨む声を耳にすることがある。より大きな製作費と市場、ジャンル映画を力強く推し進める産業の力があるからだ。「ホーム スイート ホーム」Ⓒ2026映画『ホーム スイート ホーム』製作委員会 ところが最近の韓国映画界では、逆にさまざまな規模の映画が観客と出会える日本の製作環境を羨む声を聞く。互いに自分たちにはないものを見つめているわけだ。 だが「ホーム スイート ホーム」を見ていると、答えをわざわざ外に探しに行く必要があるのだろうかと思えてくる。新しさなど見いだせそうにない一軒家と20年前の舞台劇、1000年前の漢詩、そして家族の記憶。それらをこの映画はこれほどまでに生き生きとしたエンターテインメントへと変えてみせる。 見慣れたものから、かつてなかった楽しさをくみ上げる力。「ホーム スイート ホーム」が見せてくれる日本映画の魅力は、まさにそこにある。 愉快で温かく、胸を熱くさせるタイムトラベルに加わってみたいと思ったなら、どうか今週末も劇場へ向かう支度を急いでいただきたい。(洪相鉉)