母の顔を知らずに生きてきた82歳 たどり着いた1枚の写真

Wait 5 sec.

ストーリー 矢追健介毎日新聞 2026/8/6 09:00(最終更新 8/6 09:00) 有料記事 1530文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷金治貞夫さんの姉のベッド脇にあった母とみられる女性と2歳上の兄とみられる幼児の写真。父の写真も一緒に額に入れられていた=奈良市内で2026年8月5日午前11時15分、矢追健介撮影 「どんな人やったんやろう」 男性は1歳10カ月で母親を亡くしてからずっと、母の顔も声も知らずに育った。80歳を過ぎてふと、母のことを知りたいという思いが募り、故郷の広島に向かった。火の海を父と逃げる 1945年8月6日、赤ん坊だった金治貞夫さん(82)=奈良市=は広島にいた。当時の記憶はない。後になって家族に聞いた話によると、爆心地から北西に約1キロ離れた広島市広瀬北町(現中区)の自宅で被爆したという。 突然の閃光(せんこう)。家は爆風で押しつぶされた。金治さんは倒れたタンスなどのわずかな隙間(すきま)にはまって無事だった。 町一帯が火の海と化す中、父は幼い金治さんを抱えて川沿いを逃げた。自宅の庭にいた母と2歳上の兄は今も行方不明のままだ。長姉は疎開で難を逃れ、近くの学校にいた次姉は腹痛でしゃがみ込んだことで、爆風を免れたという。思い出のきつねうどん 敗戦後、父は仕事を求めて金治さんを連れて大阪に移った。姉たちは広島に残され、家族は離ればなれになった。 印刷物の原画を描く仕事をしていた父はまもなく、周囲の勧めで再婚した。養母は実の母親のようにかわいがってくれた。「一番幸せな頃やった」 父はよく、家族を映画に連れて行ってくれた。帰り道、食堂に寄ると「何でも注文せえ」と言ってくれた。「きつねうどん」と言うと、「そんな安いもんでええんか」と笑った。「高い料理なんて知らんかったんです」。今もその光景は忘れない。 しかし、幸せは長く続かなかった。小学2年の時…この記事は有料記事です。残り895文字(全文1530文字)関連記事【最新記事】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>