爆心地で1軒だけのバラックで… 90歳「余命2年」で原爆症認定

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ストーリー 尾形有菜毎日新聞 2026/8/7 06:00(最終更新 8/7 06:00) 有料記事 1598文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷被爆後に住んでいたバラックの写真を見ながら、当時のことを語る山口広治さん=長崎市で2026年7月23日、尾形有菜撮影 白黒写真には、焼け野原にぽつんとバラックが写っていた。「これが私が住んでいた家です」 長崎市の山口広治(ひろじ)さん(90)がこの家に暮らし始めたのは、米軍の原爆投下後間もなくだった。それから80年余り。昨秋、前立腺がんと診断され、今年に入り、原爆の放射線が原因の病気だとして、初めて「原爆症」と認定された。 「自分の言っていることがようやく信用された感じ」。手にした認定書に、複雑な思いを抱く。体中が黒くなったあの日 山口さんは兵庫県魚崎町(現神戸市)生まれ。4歳の時に両親が離婚し、母の故郷の長崎に引っ越した。 9歳の時、母や叔母家族と買い出しに出掛けていた途中だった。 「逃げろー」 母のよく通る声が響いた。山口さんは引っ張っていた大八車ごと吹き飛ばされ、気づくと川に落ちていた。 被爆したのは爆心地から約1・4キロの路上。幸い大けがはなかった。家族らは竹やぶが近くにあるイモ畑に逃げ、母は背中を少しやけどした。 すすのような黒い粒を含んだ雨が降り、体中が黒くなった。爆心地の東約400メートルにあった自宅は跡形もなかった。家族は唯一残った自宅跡の井戸のそばにバラックを建て、防空壕(ごう)と行き来して生活した。腫れあがった足、母の死 そんな中、山口さんの左足は被爆後、腫れ上がった。爆風で吹き飛ばされた時に岩で足を打ったのか、だんだんとアキレスけんが硬直して足首の曲げ伸ばしができなくなった。 体は小さくても足が速いのが自慢だったのに、走ることもできない。楽しみだった運動会も見ているだけ。「情けなくてたまらなかった」 追い打ちをかけるように、被爆から3年後の1948年12月、母が43歳で亡くなった。 母と同じように近距離で被爆した山口さんは思う。「原爆投下直後に爆心地近くに住み、ふたのない…この記事は有料記事です。残り846文字(全文1598文字)関連記事【最新記事】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>