毎日新聞 2026/8/6 10:02(最終更新 8/6 10:02) 有料記事 1690文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷三登浩成さんと生前の母登美枝さん=広島県府中町で2024年5月16日午後2時29分、宇城昇撮影 「暑すぎて、午前で店じまい。観光客も歩かなくなるし」 平和記念公園のボランティアガイド、三登浩成さん(80)=広島県府中町=はこの夏から、午後のガイドを取りやめた。行きつけの食堂で昼食を済ませて帰宅する。 気象庁のデータでは、三登さんが原爆ドーム前に立ち始めた2006年7月の最高気温の平均値は29・8度だった。それが26年7月は33・2度。「気候変動はうそだ、とか誰が言っているんだろうね」 原爆ドームの前に立ち続けて20年。高校の英語教師だった三登さんが平和記念公園(広島市中区)周辺でボランティアガイドを始めたのは2006年夏だった。原爆投下の3日後、母親が広島市内に入って被爆した時、おなかの中にいた胎内被爆者。来訪する外国人と対話を重ねてきた三登さんの姿から、ヒロシマと世界の「いま」が見えてくる。 原爆ドーム前に立ち20年 外国人12万人超に語ったヒロシマ 「大切なのは広島を訪れた後」 原爆ドーム前から世界に問い続け ガイドを始めた年に還暦だった三登さんは、今年で傘寿を迎えた。顔や腕は褐色に日焼けして寄る年波を感じさせない。しかし、1年ほど前に自転車を電動に換えた。右足首の古傷が悪化し、体への負担を考えたという。 以前は英語やフランス語、スペイン語、中国語など8カ国語で自作した分厚い説明ファイルを毎日持参していた。「重たくなってきてねえ」。最近は英語版だけにしている。 「私の母は世界一年寄りの被爆者、私は最も若い被爆者」。ガイドをする際、三登さんが定番にしていた話のつかみだ。母の登美枝さんは100歳を超えても健在だった。母の写真も見せながら、家族の被爆体験を説明していた。地道な活動に「思わぬ賞」 三登さんはガイドを始める前、登美枝さんに頼んで被爆体験を手記にしてもらった。何度も手が止まり、書き終えるのに1年かかったという。それでも後年、「まだ書き足りないことがあったけどのう」と語っていた。 登美枝さんは25年2月、106歳で亡くなった。最晩年は自宅に近い高齢者施設に入居していた。前年の春、三登さんに同行して施設を訪ねた私(記者)に…この記事は有料記事です。残り808文字(全文1690文字)関連記事【最新記事】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>