平和記念式典を終えて空を見上げる兵庫県代表で式典参加した内藤幸子さん=広島市中区の平和記念公園で2026年8月6日午前9時36分、前田梨里子撮影 「広島は被爆、神戸は被災しても街は今はこんなによみがえっています」 広島市で6日に開かれた平和記念式典に兵庫県遺族代表として初参列した、自身も被爆者の内藤幸子さん(84)=神戸市垂水区=は、自らが暮らした二つのふるさとをそう話す。 復興を遂げた被爆地と被災地の街の姿を題材に、平和を願う絵を描いている。25歳で神戸に移り住み 1945年8月6日朝、3歳だった内藤さんは両親と2歳下の弟と4人で暮らす広島市南区の自宅にいた。 爆心地から4・5キロ。「ピカッ」と閃光(せんこう)が走り、廊下から母と弟のいる居間へ逃げた。 その途中、「ドーン」という音とともに大きな衝撃が走った。 ふすまや障子が壊れ、ひざと頭にけがをしたが、外出中だった父を含め家族全員無事だった。 幸い後遺症もなく、25歳で神戸市に移り住み、子育てや仕事に奮闘し、健康に過ごしてきた。2025年に内藤幸子さんが描いた原爆ドーム=内藤さん提供 そんな中、53歳だった95年1月17日、阪神大震災に見舞われた。 自宅で寝ていたところ「ゴー」という地鳴りで目が覚めた。 市内のアパートで1人暮らしをしていた長女の元に向かう途中に、倒壊した数多くの家やあちこちで煙が上がる様子を目の当たりにした。Advertisement 充満するガスの臭いに「爆発が起きたらどうしよう」とおびえながら歩いた。 家族にけがはなかったが、自宅は一部損壊し、市内にあった勤務先のビルは全壊。電車は止まったままで、毎朝4時に起き、約10キロ歩いて別の場所に通勤する生活が続いた。描くテーマを突き詰め 定年退職後、幼い頃から好きだった絵を習い始めた。 黄金山(広島市南区)から眺めた故郷の景色や、神戸市の旧居留地や洋風の街並みなど風景画をよく描いた。コンクールに出品し、入賞することもあった。 10年ほど習った頃、師事していた洋画家に「絵を多くの人に見てもらう機会があった方が成長できる」と言われ、個展を開くことを考え始めた。2026年に内藤幸子さんが描いた原爆ドーム=内藤さん提供 「自分に描けるテーマは何だろう」。突き詰めて考え、小学4年生の時に描いた原爆ドームを思い出した。 「広島でも、神戸でも、自分は奇跡的に難を逃れ、生き続けてきた。そうした人間の生きる力を表したい」 人生を表す象徴として、原爆ドームを描くことにした。「生きている者の使命」 2011年に広島市と神戸市で初めての個展を開き、13年と15年にも開いた。 その後10年間は、夫の他界で気持ちが落ち込み、ほとんど筆を執れなくなった。 しかし、22年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻の長期化に危機感を覚えるようになった。 「戦争の恐ろしさが忘れられ、同じことが繰り返される」原爆ドームの絵を描く内藤幸子さん=神戸市垂水区で2026年7月14日午後5時52分、前田優菜撮影 平和への願いを込めて再び原爆ドームの絵を描くことにした。 25年8月、神戸市内で開いた個展には空がオレンジ色に染まる原爆ドームの水彩画を飾った。 オレンジ色の意味について「ドームが焼けたと思う人も、戦火が迫ってくると思う人も、ここが焼けたことを忘れるなという人もいる。見る人が自由に想像していいんです」と語る。 これまで平和記念式典に参列したことはなかった。 「近しい人を亡くした多くの人が鎮魂に訪れているのに、家族が無事だった自分が行くことは気が引けた」と言う。 母が16年に105歳で亡くなって10年。今年、以前から通っていた被爆者交流会の世話役になったこともあり、県代表に指名され「被爆者が減少する中、生きている者の使命」と参列を決めた。 「私も母と同じ105歳まで生きないと。それまで絵は続けたい」。深緑に包まれた原爆ドームを眺め、再びキャンバスに向かうつもりだ。【前田優菜】関連記事【最新記事】