昭和天皇が語った「下克上」 なぜ開戦を止められなかったのか

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東京・代々木練兵場で行われた陸軍始観兵式で、愛馬「白雪」に騎乗し閲兵する天皇裕仁(諡号:昭和天皇、中央の白馬上)=1939年1月8日撮影 第二次世界大戦について昭和天皇の責任を問う声は根強い。しかし当の天皇は、開戦を止められなかったことを「軍の下克上」という言葉で説明する。どういうことか。 『昭和天皇拝謁記』(岩波書店全7巻)は、初代宮内庁長官の田島道治(1885~1968年)が、天皇との対話を記録したものだ。他の資料からはうかがいにくい、天皇の行動や考えを伝える超一級の記録。本連載ではその中から、「昭和天皇の戦争責任」に注目して読み解いていく。 前回:昭和天皇の「言い訳」に反論 ひるまずいさめた初代宮内庁長官「戦争が主で外交が従」と懸念 45年夏の敗戦後、昭和天皇の戦争責任を問う声が国内外で上がっていた。天皇はこれに不満を持っていた。前回見た通り、天皇は田島に対して、<宣戦の詔(みことのり)で朕が志しならんやといつてることなど少しも読み分けてはくれない>と述べ、「開戦は自分の意志ではなかった」と強調した。だが田島から「その言い訳は通用しません」という趣旨の反論を受けている(49年2月10日)。 ただ、天皇が開戦回避の努力をしていたのは事実だ。 日本は40年9月23日、フランス領インドシナ(仏印、現在のベトナムなど)北部に軍を送り込んだ。南方への進出と、英米などが日本と戦っていた中国を支援する「援蔣ルート」を遮断する狙いがあった。 このころフランスはドイツに降伏しており、仏印は政治的空白地帯になりつつあった。「火事場泥棒」的な派兵だった。さらに同月27日には日本とドイツ、イタリアとの三国同盟が締結された。事実上、対米の軍事同盟であり、アメリカの対日感情は悪化した。日本は翌41年7月28日、南部仏印にまで兵を送った。アメリカは対日外交を硬化させ、対日石油の輸出を禁止した。 日米関係の緊張が高まる中、9月6日に政府と軍部首脳が集まり、天皇が臨席する「御前会議」が開かれることになった。前日、近衛文麿首相は議案である「帝国国策遂行要領」を天皇に内奏した。要点は1カ月後の10月上旬ごろに至っても日米交渉がまとまる見込みがなければ、対アメリカ・イギリス・オランダとの戦争を決意する、というものだ。 これに対し天皇は「戦争…Google検索で「毎日新聞」の記事を優先的に表示できます。関連記事