「平行と垂直」Ⓒ2026「平行と垂直」製作委員会 まっすぐ歩き、いったん立ち止まり、直角に身体の向きを変える。物を整理するときにも、料理をするときにも、自分なりの秩序がある。 映画が始まって間もなく、「平行と垂直」というタイトルの意味が見えてくる。奇異に映るかもしれないが、自閉症スペクトラムの日向大貴(安田章大)にとって、それは世界を生きていくためのごく自然な方法なのだ。Advertisement 何を正常とするのか、その規範は特定の環境や関係のなかで形づくられる。この映画も、大貴を矯正すべきものとしては捉えない。 しかし、自閉症者を描く方法は、長いあいだそうではなかった。映画史的にも重要な「レインマン」で、ダスティン・ホフマン演じるレイモンドは、コミュニケーションに困難を抱える一方、驚異的な記憶力と計算能力を持っていた。その鮮烈な印象は、作品の意図とは別に、自閉症には障害を埋め合わせる特別な能力が伴うという幻想を残した。条件付きの市民権 振り返れば、それは障害のある人を社会の構成員として受け入れる方法をめぐる問題でもあった。多くの場合映画の中では、非凡な才能や目覚ましい達成、純粋な心、あるいは献身する家族の愛があって初めて、その生は尊重される理由を得る。善意と感動に包まれているからこそ見えにくい、一種の「条件付きの市民権」である。 「平行と垂直」の驚きは、その「条件」を拒むところから始まる。大貴に障害を埋め合わせる特別さを与えることも、彼を哀れみや保護の対象として見下ろすこともない。「障害があっても結局は“私たち”と同じなのだ」と差異を消すこともない。 同時に、保護する側のまなざしも警戒する。障害のある人に「純粋無垢(むく)」「逆境の克服」「家族の犠牲」といった条件を与え、感動をひき出そうともしないのだ。「平行と垂直」Ⓒ2026「平行と垂直」製作委員会 一方で本作は、そうした装置を避けながら現実の困難まで消し去ろうとはしない。誰かの助けを借り、別の誰かには好意を差し出す。他者を理解できず、自らも誤解される。障害のない人には当然のように許される矛盾や不完全さを、自閉症者にも等しく許している。 映画が大貴に与えるのは、一人の人間として無条件に「平凡で複雑な人間として存在する権利」なのである。人間同士として向かい合う ここで問題は、障害の有無ではなく「理解」に近づいていく。他者を理解するとは、理解しきれない何かが相手に残ることを認め、それでも関係を手放さないことだ。そこからコミュニケーションは始まる。 「平行と垂直」で、共に生きることは、一方がもう一方に合わせることではなく、互いを少しずつ学ぶ過程として描かれる。 現在と過去を往還しながら、大貴と姉の希(のん)の関係が一朝一夕につくられたものではないことを示す。家族であっても、犠牲で結ばれた共同体ではなく、完全に理解し合う理想的な空間でもない。 愛しながら疲れ、近しいからこそ傷つけ合い、それでも相手の表情や行動、沈黙を記憶し、自分たちだけのコミュニケーションを築いてきたのである。 保護する側からのまなざしも、「正常」という基準も、障害を埋め合わせる「条件」も取り払ったあとに残るのは、一人の人間ともう一人の人間だ。「平行と垂直」Ⓒ2026「平行と垂直」製作委員会 そこでは「自立」の意味も変わる。私たちは誰もが他者に頼り、ときには誰かの重荷にもなって生きている。それなのに障害のある人にだけ「一人でどこまでできるのか」を求めるなら、それもまた一つの「正常性」である。身体の座標と微動する感情 「平行と垂直」が最後まで守るのは、人間を見つめる距離である。大貴の内面を親切に解説することも、理解不能な他者として遠ざけることもしない。 そして、映画の倫理を俳優の身体へと委ねる。そのまなざしをスクリーンの上で最後まで守るのは、俳優の仕事である。 脚本がステレオタイプを拒んでも、特徴的な身ぶりや話し方を組み合わせ、「自閉症者」として分かりやすく提示した瞬間、一人の人間は再び類型へと還元される。 安田の演技はその誘惑に耐え抜き、自閉症の特徴ではなく、一人の人間の感情が固有の方法で外の世界へ届く瞬間を演じている。 大貴には歩き方や視線、手の動きや発声、反応するまでの時間にも固有のリズムがある。彼の身体にも、タイトルが示すような座標がある。印象的なのは、その内側で動く感情だ。安田はそれを説明するために演技を大きくしない。 身体の規則はほとんど変わらず、一見似た表情や仕草にも、喜びや不安、戸惑いや怒りの振幅が微細に変化する。観客は誇張されたシグナルではなく、その小さな差異を自ら読み取る。見慣れなかった表現の文法を、観客も少しずつ学習するのである。再現の正確さを超え、観客が人物を見る方法まで変えていくのだ。演技の違いが生んだ“関係” その向かい側にはのんがいる。実を言えば、鑑賞前により注目していたのは彼女だった。近作の「てっぺんの向こうにあなたがいる」でも、演技の温度と大きさを変える力が際立っていたからだ。 彼女の演技は、相手に対して開かれている。本作でも表情や動作で感情を先に示さず、相手への反応から感情を生じさせるリアリズムのアプローチを見せる。「平行と垂直」Ⓒ2026「平行と垂直」製作委員会 安田の強固な身体的規則に自分を合わるのではなく、「いま、この感情を見てほしい」と訴えるのでもなく、彼からのシグナルを受け取り、反応が顔や身体へ広がる過程を見せるのだ。 それは、感情と行動の「間」を強調し、定型化された身ぶりで意味を伝える、日本の俳優にしばしば見られる表現主義的な演技とも対照をなす。兵庫県出身の彼女になじむ西の言葉のリズムも、生活の質感を加えた。 映画は、そうした2人の演技の違いを消さなかった。安田の規則的な身体とのんの流動的な反応は、どちらかに合わせて調和するのではない。異なるリズムを保ちながら、相手のリズムに耳を澄ませる。だから2人の違いは衝突ではなく、関係になる。 そこから生まれるケミストリーは、単なる芝居の呼吸以上の意味を持つ。互いに似ることなく、関係を結ぶ。映画が語ってきたコミュニケーションの可能性を、2人の俳優が体現している。証明のいらない場所 そして再び「平行と垂直」というタイトルへ戻る。 どちらかをもう一方に合わせて矯正する必要はない。誰かの「垂直」を、私たちの「平行」に直さなくていいのだ。重要なのは、どちらが正常かではなく、異なる座標を持つ人々がどう同じ空間を生きるかだ。 この映画の温かさは楽観主義とは異なる。人は互いを誤解し、親しいからこそ傷つけ合い、善意すら相手への暴力になり得る。映画はその居心地の悪さを消さず、障害が生み出した特別な悲劇として増幅することもない。家族の愛も人生を正当化するための犠牲や献身として消費されない。 何ひとつ証明しなくても、一人の人間にすでに与えられているべき場所。「平行と垂直」が2時間をかけて静かに取り戻していくのは、もしかするとまさにその場所なのかもしれない。 そして、その過程を見つめるうちに、いつしか見慣れなかった一人の人間の言語に共感している自分を発見する。それはなかなか得がたい映画体験である。今週末も映画館へ足を運ぶ理由は十分にある。(洪相鉉)