キャンパる:戦後沖縄の土地闘争のシンボル 阿波根昌鴻氏が残したもの

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沖縄の軍用地収用を巡る土地闘争、反基地闘争のシンボル的な存在だった阿波根昌鴻氏=わびあいの里で1994年、張ケ谷弘司氏撮影(一般財団法人わびあいの里提供) 沖縄本島の北西約9キロに位置する伊江島。1945年4月、沖縄に攻め寄せた米軍の上陸を受け、日本軍の将兵約2000人、住民約1500人の計約3500人が死亡した。今も面積の約35%を米軍基地が占めるこの島には、軍用地収用を巡る土地闘争の歴史がある。闘争を主導したのは、故・阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)氏(2002年、101歳で死去)だ。膨大な数の写真をはじめ彼が残した資料の数々は、私たちに何を伝えるのか。現地を取材した。【東京都立大・小野将京(キャンパる編集部)】米軍の強制収用に抵抗 阿波根氏は沖縄県上本部村(現在の同県本部町)出身で、25年に伊江島に渡った。戦争が始まるまでは、島の真謝(まじゃ)区で雑貨店を営みながらためた資金で約13ヘクタールの土地を購入し、農業生活を営んだ。沖縄戦では、一人息子の昌健(しょうけん)氏が従軍し、沖縄本島の浦添で戦死した。戦後、米軍が強行した土地収用に抵抗するとともに反戦平和を訴える、いわゆる「反戦地主」の運動を続けた人物だ。Advertisement全国各地で開かれた阿波根氏の写真展によって、基地反対一辺倒でない「伊江島の人々を愛した人物」としての阿波根昌鴻氏像が広がりつつあるという=広島市で2025年、一般財団法人わびあいの里提供 2024年から今年にかけ、その阿波根氏が残した写真の展示会が全国各地で開催されている。彼は米軍による土地の強制収用の様子や反基地闘争、米軍の演習による犠牲者や島民の日常の姿などをカメラで撮影し続けていた。写真展には会場となる美術館が実行委員会を編成してそれぞれ主催したものと、沖縄県の平和事業に認定された「否戦(ひせん)の心と人間愛の眼 阿波根昌鴻写真展実行委員会」が主催した、全国6会場を巡回したものがある。沖縄全土に広がる闘争の先駆けに 面積約23平方キロの伊江島は、55年3月から始まった米軍による土地収用によって最大で面積の63%が軍用地となった(「わびあいの里」発行「伊江島平和ガイドマップ」より)。収用された土地には軍用の飛行場や演習のための射爆場が整備された。米軍の強制収用で家を壊された伊江島の人々は、米軍の設置したテントに住んだが、ハブや降雨後の浸水に悩まされた=1955年、阿波根昌鴻氏撮影(一般財団法人わびあいの里提供) 阿波根氏の著作「米軍と農民」(73年出版、岩波書店)には、「銃剣とブルドーザー」とも呼ばれる米軍による土地収用の苛烈さが記録されている。300人もの米兵によって家々や畑が焼かれ、テントに収容された住民の中には栄養失調で亡くなる者もいたという。 農民の代表として那覇の琉球政府で座り込みの抗議を行っていた阿波根氏の家も取り壊された。耐えかねた伊江島の住民は阿波根氏を中心に、県の南から北まで練り歩いて土地収用への抗議と活動への支援を訴える「乞食(こじき)行進」を行う。「乞食行進」は、伊江島の人々の「もはや乞食をする以外にない」という悲壮な覚悟で始まった=1955年、阿波根昌鴻氏撮影(一般財団法人わびあいの里提供) 55年7月から翌年2月まで続いたこの運動は、①軍用地料一括払い反対➁土地代の適正な補償➂米軍による損害の賠償④新たな土地接収反対――からなる「土地を守る4原則」を米軍に突きつけ、56年から沖縄全土で始まった「島ぐるみ闘争」の先駆けとなった。非暴力を貫く「沖縄のガンジー」 阿波根氏は「島ぐるみ闘争」の後も、基地に反対する人々をまとめて「全沖縄土地を守る会」の事務局長を務め、「伊江島土地を守る会」を組織した。また、ミサイルの島への持ち込みを住民との座り込み活動によって断念させたり、反戦地主が受ける税制上の不利益について訴訟を起こしたりするなど、戦後の沖縄の土地闘争、反基地闘争に巨大な足跡を残した。伊江島の人々は軍用地に立ち入り、「黙認耕作」と呼ばれる農作業を行った=1955年、阿波根昌鴻氏撮影(一般財団法人わびあいの里提供) 著作には演習中の誤爆や米兵による暴行で死傷者が出続け、生活が脅かされることへの怒りがにじむ。ただ抗議活動中の非暴力などを約束した運動スタイルから、阿波根氏は「沖縄のガンジー」とも呼ばれることもあったという。 その傍らで、強制収用の様子を写真に収めたり、米軍が演習で落とした爆弾や薬きょう、落下傘などを回収したりして、それらを資料として軍の存在が生活に与える影響を伝える活動にも取り組んだ。膨大な資料の調査・保存の取り組み続く 阿波根氏が残したこれらの資料の保存に動いているのが、大学教員やアーキビスト(公文書専門員)からなる「阿波根昌鴻資料調査会」だ。阿波根氏は活動の拠点として、84年に島内に「わびあいの里」を建設していたが、同所で保管された資料は適切な保存処理が施されないまま段ボールに入れられていた。阿波根氏が死去する直前に始動した同会は、どのような記録が残されているのかを正確に把握することを目的に、02年3月から、これまでに40回を超える調査を行ってきた。阿波根昌鴻氏が残した膨大な資料の整理・保存に取り組む小屋敷琢己教授(左)と鳥山淳教授(右)=沖縄県西原町の琉球大学千原キャンパスで、小野将京撮影 同会の代表で、沖縄現代史を専門とする琉球大学島嶼(とうしょ)地域科学研究所の鳥山淳教授(55)によると、主な調査対象は手紙などのドキュメント資料と写真、映像などのフィルム類。膨大な数が残されている生活物品などのモノ資料については、将来的な調査の可能性を見据えて保管は続けているが、どこまで調査対象とするかの判断が容易でないため、現在は調査対象から除外しているという。 それでも数万点規模の調査対象資料が残されていることは間違いないのだと語る。雨漏りや虫食いの被害を受けていた資料もあったそうだが「調査活動が始まって最低限の対策ができるようになり、結果的に保存が間に合った」という。「同じ島に住む者同士」の貴重な記録 写真フィルムについての本格的な調査は、10年に1000コマ以上のフィルムが発見されてから始まり、現在は約3200コマが確認されている。全国での写真展では、同会がネガフィルムのデジタルスキャン作業をするという形で協力した。 同会のメンバーで、沖縄の写真史料に詳しい琉球大学教育学部の小屋敷琢己教授(58)は阿波根氏の写真記録について、「50年代の土地闘争の記録としての歴史的価値はもちろんある」としたうえで、「土地闘争の写真は全体の10分の1ほどで、伊江島の人々を写した写真が圧倒的に多く、その写真に良さを感じる」と語る。阿波根昌鴻氏が愛用していた二眼レフカメラ。土地収用の悲惨な現実や島民の暮らしを捉えた=一般財団法人わびあいの里提供 阿波根氏の用いたカメラは二眼レフで、おなかのあたりに構えて撮影するものだった。そのようにして撮影された写真には、当時の風俗や生活のあり方、人々の表情が生き生きと映し出されているのだという。 「撮られる相手は、阿波根さんの顔を見て笑うなど自然な表情で、同じ島に暮らしている者同士の人間関係がにじむ。『島のおじさん』だから撮ることができるものだった」。後世の人間が写真を見返した時に、島の人間関係に思いを巡らせることができるのが阿波根氏の写真だと強調した。伊江島に設けたよりどころ 島の窓口である伊江港から、東に車で5分ほどの距離に位置する「わびあいの里」。敷地内には、しっくい塗りの建物2棟、資料の保管庫が建ち並ぶ。サトウキビなどを育てるための畑もある。「わびあいの里」に設けた反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を背にした阿波根昌鴻氏。自ら収集した資料を展示した=1995年、張ケ谷弘司氏撮影(一般財団法人わびあいの里提供) 同施設は、敷地内にある反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」で阿波根氏が収集してきた資料を展示したり、定期的に平和学習会を開催したりして、阿波根氏の業績と思いを伝え続けている。自身も反戦地主である玉城(たましろ)睦子さん(67)は、今年6月に「わびあいの里」の理事長職を引き継いだばかりだ。両親は阿波根氏とともに反戦平和活動を続けてきた。だが、玉城さん自身は高校生になるまでそれらの活動をすることはなかったという。 家が米軍の射爆場から200メートルほどしか離れておらず、幼い頃から生活は演習と隣り合わせだった。「飛行機の爆音が聞こえないように、布団の真ん中に頭を突っ込んで、指を耳の中に入れていた。戦争は体験していないけれど、『また戦争がくる』と思っていた」と小学生のころを振りかえる。今でも基地に隣接する地区の人々は、演習が終わるまでテレビも見られないほどの爆音にさらされるのだそうだ。 反戦地主として基地に反対する活動を続ける中で、沖縄防衛局の職員に何度も家を訪問されて軍用地契約を要請されたり、契約地主から「反対する人がいないと土地代が上がらないし、あなたたちは反対し続ければよい」と声をかけられたりして、怒りを覚えることもあったという。「爆音もなく、おびえることもない平穏な生活のために訴え続ける」と語る玉城睦子さん=沖縄県伊江村の「わびあいの里」の「やすらぎの家」で、小野将京撮影 それでも活動に向き合い続ける理由は、阿波根氏から受け継がれてきた活動を途絶えさせてはならないという思いがあるからなのだと語る。「また戦争に向かっていくような状況がある中で、阿波根さんや両親、島の人たちがやってきたことをつないでいかないといけない」伝承活動の課題と手応え伊江島での戦いの戦没者を悼む「芳魂之塔」。同じ敷地には、戦没者の名前が刻まれた碑が並ぶ=沖縄県伊江島で、小野将京撮影 わびあいの里は、その理念に賛同する人たちからなる「心の反戦地主会」が払う会費が運営を支える。一方で、同会の会員は減少を続けており、会費収入は以前より減った。コロナ禍で大きく減少した来館者数も完全には回復していない。残された資料を保存するための費用もかさんで、経営は厳しい。 それでも、写真展の来場者から「沖縄にこのような問題があるとは知る由もなかった」「日本国民として責任を感じる」という声が寄せられたり、韓国から写真展開催の依頼がきたりするなど、島外への広がりに手応えを感じているそうだ。米軍による砲撃の跡が生々しく残る「公益質屋跡」。島内で唯一、戦争の傷痕を残す建物だ=沖縄県伊江村で、小野将京撮影 島内をめぐると、犠牲者を悼む「芳魂(ほうこん)之塔」や激しい砲撃を受けた「公益質屋跡」、日本軍の兵士が降伏後も潜伏を続けた「ニーバンガジュマル」など、伊江島戦の歴史を伝える遺構が残る。一方、阿波根氏の足跡を感じられたのは、「わびあいの里」を除けば、米軍射爆場の目前に学び合いの場、戦いの支援者の交流の場として建てられた「団結道場」だけだった。 偶然出会った島の方に阿波根氏について聞くと「名前は聞くけど、そこまで詳しくは知らない」とのことだった。島の観光案内で紹介されるなど、島内では誰もが知る人物である一方、その業績に関する記憶は薄れつつあるように感じられた。現在は老人ホームで暮らす謝花悦子さん。土地闘争は「命懸けの闘いだった」と振り返るが、米軍に対して憎しみの感情を抱いていたわけではないという=沖縄県伊江村で、小野将京撮影半端じゃない人 わびあいの里前理事長で、阿波根氏を生涯にわたって支えた謝花(じゃはな)悦子さん(89)は、阿波根氏の人となりについて「阿波根さんは半端じゃない人だった。土地収用のことで文句を言いに来た島の酔っ払いの若者の話を、夜が明けてカラスがカアカアと鳴きだすまで黙って聞いていた。私だったらケンカしていたよ」というエピソードを語ってくれた。阿波根氏らが建てた「団結道場」。完成時には島内外から完成を祝う人々が訪れた=沖縄県伊江村で、小野将京都撮影 一方で、戦死した一人息子への愛情や失った悲しみを語ることもあったと追憶する。阿波根氏の活動の根底には「地代は永久にある収入ではない。人から取らず、自分で生産したものの収入で生活しよう」という考え方があったのだという。阿波根氏と暮らしたからこそ「阿波根さんの思い、怒り、全部分かった。だからこそ、後ろの人たちに伝えようと思った」 わびあいの里の運営を、その謝花さんから引き継いだ玉城さんは、阿波根氏の活動を広めるのはまずは身近なところからだとして「このわびあいの里が、島の人たちがもっと出入りできるようなところにしていきたい」と語った。