「時には懺悔を」Ⓒ2026 映画「時には懺悔を」製作委員会 「あのときのことは、本当に感謝しています」 中島哲也監督の新作「時には懺悔を」を見ながら、ある若い韓国人監督の言葉を思い出した。 プログラムアドバイザーを務めた2020年の韓国・全州国際映画祭で、韓国短編コンペティション部門に招待されたその監督は、筆者にそう言ったのだ。 いくつかの映画祭に関わってきたから、招待したゲストから感謝の言葉を受けることは時折ある。 しかし、彼女が感謝したのは自分の映画のことではなく、その数年前に中島監督の「来る」を、韓国・富川国際ファンタスティック映画祭に招待したことだった。Advertisement 韓国公開を待ちきれないほど見たかった作品であり、中島監督の映画は自分の創作を育んだ糧でもあったという。韓国映画アカデミー(KAFA)に在籍していた彼女は、上映時間に合わせて釜山から韓国高速鉄道(KTX)で富川まで駆けつけ、映画を見るとそのまま帰途についた。一編の映画が一人の観客を動かしただけでなく、新たな映画へとつながったのだった。“怪物”の系譜と進化の果てに その中島監督の久々の新作は、単なる復帰作にとどまらない。彼のフィルモグラフィーにおける「時には懺悔を」は、「変化」というより「革命」と呼ぶほうが正確なのかもしれない。「時には懺悔を」Ⓒ2026 映画「時には懺悔を」製作委員会 中島監督の映画には、早くから“怪物”がすんでいた。カメラ機能とカラー画面の装着によって、携帯電話が娯楽とマルチメディアの端末へと変わり始めた頃の「下妻物語」において、その“怪物”は、それ自体はさほど脅威ではないものの「生き方を制限し、支配するあらがいがたい力」という意味で、「地方」という空間だった。 そこに暮らしているだけで相対的剥奪感に耐えなければならなかった少女たちは、悪戦苦闘と小さな成功を重ねながら、自分たちを取り囲む世界を越えていく。まだ“怪物”に勝つことはできた。傷ついた人間という到達点 ところが「嫌われ松子の一生」では、松子(中谷美紀)が「愛」という“怪物”にのみ込まれる。「告白」では、純粋さの仮面をかぶった子どもたちの集団という“怪物”が大人たちの醜悪な世界を嘲笑し、彼らと対峙(たいじ)する教師、森口悠子(松たか子)までもが“怪物”になってしまう。 「渇き。」に至ると、“怪物”はもはや比喩ではない。少女の外皮をまとった加奈子(小松菜奈)は愛という言葉をあざけりながら善悪の境界を崩壊させ、「来る」ではついに、人間が生み出した悪がいかなる祈とう師にも退けることのできない悪霊にまで成長する。 “怪物”は、空間から愛へ、純粋さの仮面をかぶった悪から人間そのものへ、そして再び人間が生み出した絶対的な悪へと姿を変えながら進化していった。「時には懺悔を」Ⓒ2026 映画「時には懺悔を」製作委員会 そして「時には懺悔を」では、その“怪物”を生み出した“傷”を見つめている。人間の悪を徹底して掘り下げ、その果てに初めて、傷ついた人間へとまなざしを向けているのである。一つの命と向き合うこと 映画はある私立探偵の死と、はるか以前に起きた新生児誘拐事件とが絡み合うところから始まる。死んだ探偵の元同僚である佐竹三雄(西島秀俊)が、見習いの中野聡子(満島ひかり)と共に事件を追う。その中心には、障害のある少年、新と、彼を育ててきた哲夫(宮藤官九郎)、そして新の実母である尋津民恵(黒木華)がいる。 あらすじはここまでで十分だ。重要なのは事件の全貌ではなく、新という一つの命を前にした人々が、自分自身と他者を見る目をどのように変えていくのかという点にある。 ここで2人の学者を想起したい。1人は、フランスの哲学者エマニュエル・レビナスである。「時には懺悔を」Ⓒ2026 映画「時には懺悔を」製作委員会 レビナスにとって、倫理は法や規範より先に生起する。他者の顔と向き合った瞬間、人間はすでに、その存在に対する責任のうちに置かれている。相手を完全に理解できたのか、責任を負う資格があるのか、過去の罪を許されたのかは、その後の問題なのだ。 「時には懺悔を」において、新は感動を生み出すための象徴でも、他の人物たちを救済するための装置でもない。彼はただ生きている一人の人間である。 中島監督は、登場人物をその命と向き合わせる。彼らの善悪を裁こうとはしない。罪を消し去らないし、安易に善人へと変えることもしない。ただ、一人の人間を過去の一場面や一つの名詞の中に封じ込めることをやめる。 「悪人」と名づけた瞬間にこぼれ落ちてしまう傷や時間、関係の幾層もの重なりをもう一度見つめ直す。彼らがいかなる存在になろうとするのかを問いかける。技法による統制の向かう先 一方で、中島監督特有の映画的形式はなお健在で、観客の鑑賞への介入と統制は依然として強固だ。変わったのは、その統制が向かう先である。「時には懺悔を」Ⓒ2026 映画「時には懺悔を」製作委員会 事件現場や夜の街を捉えた画面は相変わらず冷たく乾いており、人物の視線に沿って観客の注意を一方向へ導きながら、行動や感情が完結する寸前でカットを切り上げ、リアクションショットや結果のショットを容易には見せない編集も繰り返される。場面を先回りして切断し、観客が因果や感情を自らの方法で補完する余地を封じてしまう。 こうした技法が、かつては人間の醜さを決定づけるために観客の視線を支配していたとすれば、今回は一人の人間を過去だけで拙速に善悪へと還元してしまうことを拒んでいる。浮かび上がる社会構造 このとき本作の倫理は、アメリカの政治学者ジョアン・トロントが提唱した「ケアの倫理」とも響き合う。 トロントにとってケアとは、善良な個人の自己犠牲や家族愛の別名ではない。誰かの必要に気づき、その必要に対する責任を引き受け、実際にケアを行い、さらにケアを受ける側の応答に耳を傾けるという、一連の社会的実践である。 ケアは人を変える一方で、人を消耗させもする。一人の善意にすべての負担を委ね、その人が倒れた瞬間に非難する社会であるならば、ケアは美徳の名を借りた放置へと変わってしまう。善意だけでは成り立たないのだ。時間と労働、忍耐、そして資源を必要とし、その負担を誰が担うのかによって、家族や社会の権力構造までもが浮かび上がる。 「時には懺悔を」が、障害のある子どもをめぐる家族愛だけを描いた作品ではない理由もそこにある。「時には懺悔を」Ⓒ2026 映画「時には懺悔を」製作委員会 障害を家庭内部だけの問題へ押し込み、ケアの重荷を特定の誰かへ集中させ、耐えきれなかった人間を即座に「悪人」と名づける社会構造が、その背後に横たわっているからだ。他者との出会いと共生 だからといって、本作は責任を社会へ転嫁し、個人を免責するわけではない。むしろその逆である。構造を理解するとは責任を消し去ることではなく、責任が生まれた場所をより正確に見つめることにほかならない。 レビナスが他者の顔の前で避けることのできない責任の始まりを語ったとすれば、トロントはその責任が現実の社会において、労働や制度、関係性としていかに持続されるべきかを問う。 前者が他者との出会いそのものの倫理であるならば、後者は他者と共に生きる社会をいかに築くかという倫理である。「時には懺悔を」Ⓒ2026 映画「時には懺悔を」製作委員会 本作はこの二つの地平を重ね合わせながら、善意や制度だけでは支えきれない人間共同体の困難と、そのなかで人が希求せずにはいられない「超越者」と救済の可能性を、きわめて実存的な次元から見つめている。尊厳を失わずに生きるということ 筆者が強調したいのは、こうした問いが16年の津久井やまゆり園事件以後の日本において、いっそう重い意味を帯びて響くということである。 生産性や効率を生命の価値へと置き換え、障害者の存在そのものを否定した優生思想に基づく暴力が現実に起きた。 「時には懺悔を」はその事件を直接論じるのではない。しかし「生まれてこないほうが幸せだった」と見なされかねなかった一人の子どもが生きているという事実だけで、周囲の人生が動き始めることを静かに示し、そして語りかける。 生命の価値は、達成や生産性、他者にもたらした効用によって証明されるものではない。まず「生きている」という事実があり、社会の責任とはその命が尊厳を失うことなく生きられる関係と条件を整えることにあるのだ、と。「時には懺悔を」Ⓒ2026 映画「時には懺悔を」製作委員会 「来る」が人間の生み出した悪の超越性を証明した作品だったとすれば、「時には懺悔を」は命の超越性を証明する作品である。 しかし、“怪物”が消え去ったわけではない。人間という泥濘(でいねい)を誰よりも長く掘り続けてきた中島監督が、その奥底で“怪物”を生み出した傷と一輪のハスの花を同時に見つめるようになった。その光景は筆者の目頭を熱くした。 だからこそ、この作品の温かさは安易な慰めではない。悪を知らない者が語る楽観ではなく、悪を見尽くした者だけがようやくたどり着いた尊厳なのである。 “怪物”を見つめ続けてきた中島哲也は、ついに“怪物”よりも長く生き続ける人間の可能性へと到達した。日本映画史に刻まれるべき瞬間を、その目で見届けてほしい。今週末も映画館へ足を運ぼう。(洪相鉉)