骨董のごとき兵器では必敗 戦車兵だった司馬遼太郎は看破した

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毎日新聞 2026/8/28 11:30(最終更新 8/28 11:30) 有料記事 1617文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷中国戦線を走行する97式中戦車=1944年5月22日撮影 今年、没後30年を迎えた歴史小説の大家・司馬遼太郎(本名・福田定一)は、エッセーや対談などではしばしば自らの歴史観を披露した。 その中で、昭和元年から20年の敗戦までを「昭和前期」とし、<何とくだらない戦争をしてきたのか>とあきれ、嘆いた(『「昭和」という国家』NHKブックス)。 関連記事 太平洋戦争開戦は「集団的政治発狂」 司馬遼太郎の問い貧弱な装甲 威力劣る大砲 『歴史と視点 私の雑記帖』(新潮文庫)には、その昭和観の土台となったであろう体験をつづったエッセーが収録されている。 (1)「戦車・この憂鬱な乗物」(2)「戦車の壁の中で」(3)「石鳥居の垢」だ。 大阪外国語学校から学徒出陣した司馬は1943年12月1日、兵庫・加古川北郊の青野ケ原(現小野市)にあった戦車第19連隊に幹部候補生として入営し、翌年5月、旧満州(現中国東北部)の四平にあった陸軍戦車学校に入校した。卒業後は戦車第1師団に配属された。 そのころ主力だったのは「97式中戦車」、通称「チハ車」である。当時、戦車を自国で製造していたのは米英と独仏ソ、イタリアと日本だけだった。大日本帝国の陸軍にとって「世界の列強」を象徴するような兵器であった。 ただ司馬のチハ車評は非常に厳しい。米軍などの戦車に比べ、装甲が貧弱で大砲の威力もはるかに劣ると指摘。 <同時期のどの国の戦車と戦車戦を演じても必ず負ける><戦争のできない戦車という、世界唯一の珍車>と断じた((1))。 チハ車で米戦車と戦うのは<海軍でいえば三等巡洋艦が戦…この記事は有料記事です。残り968文字(全文1617文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>