「オデュッセイア」 クリストファー・ノーラン監督の「オデュッセイア」は、古代ギリシャの叙事詩を壮大なスケールで映画化した英雄譚(たん)だ。7月の世界公開以来各地で大ヒットを記録、すでに興行収入約57億ドル(912億円)をたたき出している。 ところがその内容は冒険の高揚感とはほど遠く、戦争の責任と加害の罪悪感を背負って旅をするオデュッセウスの憂いに満ちている。そしてその憂鬱は、ノーラン監督の前作「オッペンハイマー」(2023年)と共通しているのだ。Advertisement 「オッペンハイマー」で主人公は、原爆を生み出して戦いの終結を決定づけた一方で、自ら引き起こした結果と向き合い続けた。2作続けて“世界を変えてしまった英雄の苦悩”を描いたノーラン監督の意図は、どこにあるのだろうか。20年にわたる王の帰還の旅 ホメロスの「オデュッセイア」を映画化したもの。ギリシャの島国イタケの王オデュッセウス(マット・デイモン)は、10年続いたギリシャ連合軍とトロイアのトロイア戦争を終わらせたものの、その後行方が分からなくなっていた。「オデュッセイア」 帰りを待つ妻ペネロペ(アン・ハサウェイ)と息子テレマコス(トム・ホランド)は、王の座を狙うペネロペへの求婚者に手を焼いていた。オデュッセウスの消息を求めて旅に出たテレマコスは、戦争の終止符となった「トロイの木馬」の物語を知ることになる。 一方オデュッセウスは、女神カリュプソ(シャーリーズ・セロン)にとらわれ記憶をなくしていたが、次第に自身の苦難に満ちた旅を思い出していく。 20年にわたる王の帰還の旅を柱にした物語に、一つ目の巨人ポリュペモス、魔女キルケ、セイレーンら海の怪物も登場するから、胸躍る冒険活劇になるかと思いきや、旅路は常に険しく、オデュッセウスは悩み続ける。傲慢さ、愚かさも併せ持つ人間 トロイア戦争終結後、故郷にむかう旅の途中、オデュッセウスは知恵を絞りながらさまざまな試練に立ち向かうものの、彼の部下たちは、ポリュペモスや巨大な兵士を前にあっけなく命を落とし、キルケの誘惑にあっさりと屈する。「オデュッセイア」 荒れ狂う海でひたすら帰還を目指す男たちは、かつて戦争の立役者でありトロイアにとって恐ろしい破壊者だったとは思えないほど、疲弊しきった姿を見せる。 そもそも原作「オデュッセイア」のオデュッセウスは、知恵が回るが、聖人君子というわけではない。自分の名を誇示したいという傲慢さ(ヒュブリス)から、ポリュペモスに本名を名乗り、結果としてポリュペモスの父親ポセイドンの怒りを買って長きにわたる苦難の帰還の旅を招くような、愚かさや慢心を抱えた人間でもある。 映画では神々の怒りというよりも、彼が自身の引き起こした惨劇や犠牲に対する苦悩や罪悪感が強調されている。英雄の帰還物語でありながら、そこにあるのは自らの行為によって生じたものを背負いながら故郷を目指す男の姿だ。彼の旅路は重く、見る者にも重い余韻を残す。「クセニア」違反とその代償 余韻でいえば、筆者が7月の公開週末にオーストラリア・メルボルンのIMAX劇場で鑑賞した際、終映後に起こったのは一部の乾いた、まばらな拍手だけだった。追随する観客はおらず、劇場は重苦しい静寂にのまれた。引き起こした悲劇を背負う男の物語は、圧倒的な映像体験で観客を打ちのめしたようだ。「オデュッセイア」を上映するIMAXメルボルンのロビー=梅山富美子撮影 さらに、物語の核をなすのが、「クセニア」と呼ばれる古代ギリシャの規範だ。クセニアとは、どんな客も拒まずもてなす、最高神ゼウスが定めた掟(「ゼウスの法」)で、相互尊重のもとに成り立つルールでもある。 しかし、オデュッセウスは、トロイアへの贈り物である木馬に潜りこみ、街を内側から破壊して、自らクセニアを踏みにじる側に立ってしまう。 ノーラン監督は、このクセニアを軸に物語を展開させる。本作の宣伝ツアー中、ノーラン監督は中国のポッドキャスターで政治哲学講師の鐘書と対談した。その際、ギリシャ原典には存在しない“贖罪(しょくざい)”の概念を入れ込み、作品を“キリスト教化”したのではないかと問われて、意図的なキリスト教化を否定し、作品の核にあるのは「クセニアの違反とその代償」だと答えている。「オデュッセイア」偉人の犠牲や加害も描く トロイア戦争を終結させた英雄でありながら、その勝利のためにクセニアを踏みにじり、多くの犠牲を生んだオデュッセウス。ノーラン監督は、その功績と罪の両方を背負った人物として英雄を描き直している。 それは「オッペンハイマー」にも通じる。ノーラン監督が2作を通して意図しているのは、偉大な功績だけを見れば英雄や偉人と呼ばれる人物を、その力がもたらした犠牲や加害まで含めて描くことだ。 これは、世界的ヒット映画を作り続けるノーラン監督自身とも重なるのではないだろうか。名前だけで観客を劇場に呼び込める数少ない監督としての栄光。その一方で、自らの作品が持つ力と、それがもたらし得る影響まで見つめ続けることは、ノーラン監督にとって重要なテーマなのかもしれない。「オデュッセイア」 それに、ノーラン監督が過去の歴史や神話を通して描く、大義の名のもとに生まれる犠牲や加害を、昨今の世界情勢に重ね合わせる人も少なくないだろう。高尚な反戦映画として受け取るのか、それとも1人の英雄の罪と苦悩として受け取るのか、はたまた英雄帰還の大冒険と受け取るのか。物語は一つだが、観客によっても異なる作品となっている。帰還兵のPTSD また「オデュッセイア」は、単なる冒険活劇ではなく“帰還兵のPTSD”として解釈することも可能だろう。カリュプソの下で記憶を失わせるハスの実を食べてしまう場面も現実逃避のようであり、戦争によるトラウマでPTSDを抱え、依存に走る帰還兵のメタファーのようだ。 欧米で公開されて以降、レビューではノーラン監督のこだわり抜かれたスペクタクルな映像美を絶賛する声が圧倒的だ。 しかしその一方で、主人公の欠陥や過ちを強調するという構造によって、後悔にさいなまれる男のドラマに気持ちを持て余してしまった、共感性よりも突き放した感のあるドラマだ、という意見もある。没入性の差があるようだ。古典への親密度も評価に影響? 評価はまた、教育の地域差によるギリシャ神話や古代ギリシャ叙事詩に対する知識や、思い入れの度合いも影響しているのではないだろうか。「オデュッセイア」 筆者が住むオーストラリアで実感したことがある。「オデュッセイア」の書籍の購入を考えていることを知人のイタリア人に話すと「『オデュッセイア』だけか? 『イリアス』『アエネーイス』も読まないと」と返された。 トロイア戦争を描く「イリアス」や、ローマの建国を描く「アエネーイス」も読めば、古代ギリシャについてより理解が深まるのは、至極まっとうな意見である。しかし、この会話をしたのは映画公開1年前であり、間髪入れずに返されたことが、物語への親密度の違いを感じた。 知人は、学校の授業のカリキュラムで「イリアス」「オデュッセイア」、そして「アエネーイス」と3大叙事詩を学んだという(知人はクセニアのことはあまり覚えていないが、3大叙事詩は「名誉が何よりも重要」という価値観がベースにあると学んだそう)。 また、オーストラリアの書店の児童書の一角には、映画に合わせて児童向けの「オデュッセイア」の書籍が並ぶコーナーができていた。メルボルン市内の書店には特設コーナーが設けられ、多くの「オデュッセイア」が並んでいた=梅山富美子撮影 このように、吟遊詩人によって語られた物語は多くの形で解釈され、翻訳や書籍化がなされ、現代まで語り継がれている。だからこそ、それぞれの背景によって、ノーラン監督の「オデュッセイア」に対して意見のギャップが生まれることもあるのだと驚きと同時に深い納得感があった。 それにしても、ノーラン監督の人気には圧倒されるばかりだ。メルボルンのIMAX劇場では公開から1カ月以上たった8月終盤でも、1カ月先までチケットはほぼ完売だった。シンプルだが難解なこの映画がどれだけの人に響くのかは未知数だが、多くの人が劇場で目撃したいと渇望しているのは確かだ。(梅山富美子)