ヒロシマの座標軸:周縁部から迫る被害の全容 山二つ越えた村の記録と記憶

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ヒロシマの座標軸毎日新聞 2026/9/13 06:00(最終更新 9/13 06:00) 有料記事 1474文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷「戸山村の夏」の著者、二反田正康さん。原爆投下の後、村の子どもたちは山に登り、煙に包まれた広島の街を見ていたという=広島市安佐南区で2026年9月2日午後4時23分、宇城昇撮影 原爆の被害はどこまで広がっていたのか。その問いへの答えは今も出ていないし、この先も決着しないかもしれない。だからこそ81年間、さまざまな調査や研究、報道がされてきた。 この夏に刊行された「戸山村の夏 広島市郊外―子どもたちの原爆」(渓水社)は、一つ一つの事実を掘り起こし、伝えていく意義を改めて考えさせられた。 筆者は中国新聞社(広島市)の記者だった二反田正康さん(79)。「戸山村」は現在、広島市安佐南区の一部になっている旧村名で、広島市街地からは山を二つ越えた地だ。 1945年8月6日朝、爆心地から北西に約13キロの村でも山を越えて閃光(せんこう)が走り、爆発の衝撃で家が揺れ、黒い雨が降った。搬送されてきた負傷者で学校は救護所に。通勤や通学で広島に出ていた家族を案じる村人。不安と恐怖に涙を流す学童疎開の子ら……。 小学生5人を主人公に据えた物語は、実話をつないで小説風に「あの日」を再現した。二反田さんも会員の「戸山民俗資料保存会」が2011年にまとめた資料集「『戸山村』の8月6日―爆心地から13キロ、その証言」に収録された191人分の証言に基づいている。この時、聞き取りに応じて初めて原爆の体験を明かし、「肩の荷が下りた」と語った人もいたという。 資料集が刊行されたのは、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故があった年。私は当時、広島支局で取材を統括する次長(デスク)で、見えない放射能の恐怖という原爆と原発事故に共通する課題にどう迫るか、思案していた。 熱線や爆風が直接は届かなかった山里で、何も分からない人々は黒い雨が降った後の水を飲んでいた。舞い落ちてきた紙片を拾い集めたともいうが、「死の灰」に触れたのと同じことだ。体調不良の訴えが相次ぎ、突然死んだ幼子もいた。 それが原爆の影響なのかは分からない。しかし、確かにあった事実を記録し、記憶を共有することに意味があるはずだ。先の見えない原発事故に揺れた夏、取材の方向性をつかんだ感があった。資料集を基に支局記者が取材を重ね、「爆心13キロの村 66年後の証言」という特集記事を作った。 15年たって二反田さんが小説にしたのはなぜか。…この記事は有料記事です。残り571文字(全文1474文字)【前の記事】8月6日、午前8時15分に ビル街の一角で開かれる慰霊祭関連記事【最新記事】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>