映画の推し事:「ネルソンさん」が問いかけるもの 戦争の加害と被害 記憶をどう受け継ぐか

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「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」ⒸMr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners 定期的に整形外科へ通っている。いや、通わなければならない。「退行性疾患」という性質上、時間がたつほど病院の世話にならざるを得ない。 診察を受けた後には程度こそ軽いものの、短ければ数時間、長ければ1日ほど、負傷した当時の状況が繰り返し生々しくよみがえってくる。ただ、薬局で受け取る処方薬も含めて、費用を支払うことはない。大韓民国政府、より正確には国家報勲部が負担する。筆者が「傷痍(しょうい)軍人」だからである。Advertisement 軍務の具体的な内容については、今も書けないことが多い。置かれる状況や個人に求められる能力も、日本で自衛隊と聞いて一般に思い浮かべる、災害現場で活動する姿とはかなり異なる。通常の兵役とも区別されるものだった。 ただ、筆者が韓国政府から発給を受けることのできる英文の公文書には、その経歴について「Wounded in action or injured in the line of duty」と記されているだけである。 韓国・富川国際ファンタスティック映画祭で主演作を招いたことをきっかけに知り合ったアクション俳優の坂口拓は、筆者の軍務時代の体験を聞くたび、「侍として同じものを感じる」と口にする。いかにも彼らしい表現なのだと思う。 しかし筆者自身は、当時の経験を武勇伝として振り返ることはない。今、その時のことを最も具体的に思い出す場所は、むしろ整形外科の診察室だからである。だからといって、軍隊に否定的な感情を抱いて生きているわけではない。まして、筆者自身の経験を「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」の主人公アレン・ネルソンの人生と同列に置くつもりもない。 ただ、一つだけわかることがある。制服を脱ぐ日と軍隊で負った傷が消える日は一致しない。身体に残る傷も、記憶に刻まれた傷も、同じことだ。「鉄男」から「野火」へ 塚本晋也は長年にわたり、人間の肉体と暴力との関係を執拗(しつよう)に見つめ続けてきた監督である。世界的な評価を決定づけた1989年の「鉄男」では、人間の身体が金属と融合して異形へと変貌し、人間存在そのものが脅かされた。それ以降、塚本作品において肉体は常に重要な位置を占めてきた。暴力は常に生々しい。しかしその視線は、少しずつ異なる意味を帯びていく。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」ⒸMr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners 初期作品で破壊され、変形された肉体は、やがて暴力にさらされ、苦痛を受ける人間の身体として具体的な重みを持ち始める。 2015年の「野火」においては、戦争が、人間の肉体だけでなく精神までも徹底的に破壊する。時には目を背けたくなるほど凄惨(せいさん)である。ここでは暴力を見せ物にするためではない。むしろ「暴力」という言葉を抽象的な概念のままにせず、その対象となった人間が実際に感じる痛みへと引き戻すのである。 「野火」を撮る際、塚本は戦争を表現するために、むしろ暴力描写が足りないのではないかと考えたこともあったという。現実の戦争は映画など及びもつかないからだ。暴力を一種のファンタジーとして描いていた彼は、戦争の気配をすぐそばに感じるようになって、もはや以前と同じようには暴力を扱えなくなったと語っている。 以降、人を斬れない武士が主人公の「斬、」(18年)、戦後の闇市と帰還兵のPTSDを描いた「ほかげ」(23年)と、破壊され、変形していた肉体は現実の痛みを直視させる方向へと変わっていった。その過程は、塚本自身の時代認識と無関係ではないだろう。暴力を行使した人間の内面へ 「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」もまた、その延長線上にある。ただし今回は、カメラを向ける先が違う。 暴力を受ける人間の肉体を見つめてきたカメラは、その暴力を行使し、生き残った人間の内面へと踏み込んでいくのである。 実在の人物アレン・ネルソンは18歳で米海兵隊に志願し、ベトナムへ送られた。人を殺す訓練を受け、実際に人を殺した。映画には、米兵に殺された家族の遺体を抱いて泣き崩れるベトナムの人々が登場する。そして彼らもまた、銃弾に倒れる。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」ⒸMr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners 塚本は銃撃戦の迫力や戦闘の緊張感を前面に押し出さない。銃口の向こう側にいる人間の顔と、その苦痛をまず見せる。そして映画は、そこで立ち止まらない。 生きてアメリカへ帰還したネルソンもまた、戦争から逃れることはできなかった。長くPTSDに苦しみ、日常を取り戻すまでには20年以上に及ぶ治療を必要とした。その過程で、医師ニール・ダニエルズがネルソンに問う。 「なぜ、その人を殺してもいいと思ったのですか」 ネルソンの目が大きく見開かれる。脚が震え始める。答えることができない。塚本は説明を加える代わりに、その震える脚を見つめる。 これは「野火」や「斬、」で暴力を受ける肉体を見つめていたカメラがたどり着いた、もう一つの方向であるように思える。体に残る二つの苦痛 銃で撃たれ、刀で斬られた身体に暴力の傷痕が残るのなら、人を殺した人間にもまた、自らが行った暴力の傷痕が残る。もちろん、その二つの苦痛は同じではないし、同じように扱うこともできない。 この映画が興味深いのは、その違いを消すことなく、被害と加害が一人の人間の人生の中に同時に存在し得るという、容易には受け入れがたい事実から逃げない点にある。 戦争はネルソンを破壊した。しかし、それによってネルソンが他の人間を破壊したという事実まで消えるわけではない。ネルソンは戦争によって深く傷つけられた被害者であると同時に、他者に取り返しのつかない傷を負わせた加害者でもある。 だからダニエルズは繰り返し問う。 「なぜ人を殺したのですか」「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」ⒸMr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners 「戦争だったから」「命令だったから」「殺さなければ自分が殺されるから」。ネルソンにはいくらでも答えがある。そのどれも完全に間違っているわけではない。それでも問いは続く。 やがてネルソンは、自分にとって最も耐え難い答えへとたどり着く。 「殺したかったからです」 もちろん映画は、一度の告白によって20年以上にわたって彼を苦しめてきた心の傷が突然癒えたなどという、安易な結論には向かわない。 ダニエルズの執拗な問いも、罪を白状させるための尋問とは異なる。戦争、命令、生存という説明だけでは届かなかった経験と感情を、自らの言葉で語れるものにしていく長い過程の一部なのである。逆説的だが、彼の回復は自分にとって最も苦しい事実を認めるところから始まる。銃声がやんでも終わらないもの ここで「ほかげ」を思い起こさずにはいられない。「野火」が戦場で破壊される人間を描いたとすれば、「ほかげ」は銃声がやんだ後にも終わらない戦争を見つめた作品だった。筆者が塚本の戦争映画において重視してきたのも、戦争を過去の出来事として封印しない姿勢である。 「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」は、「ほかげ」が提起した問題を、さらに困難な方向へと押し進めた作品に見える。戦争の記憶を背負うのは、被害者だけでなく加害者でもあるからだ。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」ⒸMr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners それは、現在の日本でこの映画を見る意味にもつながっている。 日本では戦争を直接知る世代が急速に少なくなっている。それだけに何を、どのように記憶するのかという問題はますます重要になる。自分たちが戦争で味わった苦痛を記憶することと、自分たちが他者に与えた苦痛を記憶することは両立できるのか。 アメリカのベトナム帰還兵を主人公とする映画ではあるが、塚本が投げかける問いは決してアメリカだけにとどまらない。与えた苦痛と共に生きていく 映画の中で、ネルソンがアメリカの子どもたちを前に、自らの戦争体験を語る場面がある。涙を流しながら必死に言葉を紡いでいるにもかかわらず、画面から彼の声は聞こえない。塚本はネルソンが何を語っているのかを説明する代わりに、語る彼の顔とそれを聞く子どもたちの顔を見つめる。 そして最後、老いたネルソンが講演のためにベトナムへ戻った時、初めてその声を聞かせる。自分がこの地で犯したことを隠さずに語る。そして告白する。 この記憶は決して消えない、と。 アメリカでは消していた声を、ベトナムでは聞かせる。この演出上の対照は、塚本が考える「回復」とは何かを鮮明に示している。 それは記憶がなくなることではない。自分が受けた苦痛だけでなく、自分が与えた苦痛までも記憶し、そこから逃げずに生きていくことなのである。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」ⒸMr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners 傷を消すことで人間性を回復するのではない。消すことのできないものを認め、自分のものとして引き受け、ともに生きられるようになることで、人間性を取り戻していく。 「鉄男」から30年以上にわたり、人間の肉体と暴力を見つめ続けてきた塚本晋也は、「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」で、その長年の問題意識をついに加害者の記憶にまで押し進めた。 ぜひ、この映画に出会うために劇場へ足を運んでほしい。撃たれる者だけでなく、その銃を撃ち、生き残った者にまでカメラを向けることで、今日の人類社会が一連の世界史的な出来事を通じて再び直面している、根源的な問題へと迫る記念碑的な作品である。 一本の映画の入場料をはるかに超える価値を持つ映画体験が、観客を待っている。(洪相鉉)