毎日新聞 2026/9/9 08:00(最終更新 9/9 08:00) 有料記事 3153文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷列島縦断「あるき旅」の途中、大阪市内を歩く石川文洋さん=2019年2月28日、高尾具成撮影 ベトナム戦争などの現場から、戦争の不条理さや愚かさを写し、伝えた報道写真家、石川文洋さん。親が犠牲となった子どもたち、死の恐怖に苦悶(くもん)する米兵――。「あうんの呼吸」で対話をするようにレンズを向け、シャッターを押した。 初めて会ったのは2015年。紛争地取材をテーマに開催されたシンポジウムで、ともにパネリストとして参加した。過酷な戦場をくぐり抜けてきた印象が強く、緊張しながら、みなが呼ぶように「ブンヨウさん」とあいさつを交わした。 以後、やりとりを続けたが、差出人名を見なくても文洋さんだとすぐに分かった。太字の万年筆で書かれた特徴あるブルーブラックのインク文字は、真っすぐな人柄を映すようだった。必ず記されていたのは「カメラマンを続けます」の一筆。その言葉通り、生涯現役を貫いた。カメラマンの「喜び」 80歳を機に文洋さんは、18年7月から19年6月にかけ、北海道・宗谷岬から沖縄・那覇までの太平洋側、約3500キロを縦断する「あるき旅」に臨んだ。03年に日本海側の約3300キロを踏破したことに続く挑戦だった。途中、大阪と兵庫で2日間、20キロほどを一緒に歩きながら、いろいろな話を伺った。 その一つが、ベトナムやラオス、カンボジアの戦場で亡くなったという日本人のジャーナリストら15人を追悼するため、四国八十八カ所の遍路旅に赴いた06年の出来事だ。文洋さんは道中で心筋梗塞(こうそく)に見舞われ、自動体外式除細動器(AED)で蘇生した。 「あの時は戦場で亡くなっていったみんながね、『お前はまだ生きろよ』『生きていいんだよ』と助けてくれたんですね」。淡々と語っていたが、その時だけはかみしめるような表情を見せた。退院後、リハビリを経て翌07年に遍路旅を再開し、結願したと教えてくれた。 首からカメラをさげ、10キロほどの荷を背負い、両手にはトレッキング用のステッキを携えながら歩いた文洋さん。リュックには「戦争のない世界を」と印字されたワッペンがあった。「シャッターを押す光景との出合いは、カメラマンにとっての喜びなんです。心が揺さぶられたということですからね」 東日本大震災などの被災地、各地の米軍基地周辺、被爆地・広島なども取材している。東京電力福島第1原発事故の被災住民と帰還困難区域にも入った。「不条理感を抱える住民の思いに触れましてね。沖縄と重なる部分も見えてきましたよ」 あるき旅を途中で中断し、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設に向けて工事が進む現場にも度々足を運んだ。「『どんな戦争にも加担したくない』『加害の島になりたくない』という気持ちが沖縄の人々の胸の内にあるんですよ。新基地建設などは、アジア諸国の警戒感を強くするだけです」歩くことは聞くこと 文洋さんに影響を受けた報道写真家は数多い。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)専属で20年間、紛争地の難民取材などを続けたフォトジャーナリストの小林正典さん(77)=大阪府=は、あるき旅を続ける文洋さんの姿に「世界をもう一度見つめ直そう」というメッセージを受け取ったと振り返る。 「あわてずにゆっくりと歩く。年齢を重ね、体力が衰える中でも現場にこだわる。その生きざまが…この記事は有料記事です。残り1818文字(全文3153文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>