映画の推し事:時代とジャンルを超えてつながる「藁にもすがる獣たち」と「仁義なき戦い」

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「藁にもすがる獣たち」Ⓒ曽根圭介/講談社 Ⓒ2026「藁にもすがる獣たち」製作委員会 「私たちは答えを見つけることができなかった。金を出してさえも」――ベルトルト・ブレヒト「四川の善人」より。 金が人を狂わせる物語は珍しくない。まして曽根圭介の小説「藁にもすがる獣たち」は、すでに韓国のキム・ヨンフン監督の手でも映画化され、2021年に日本でも公開された。Advertisement ならば城定秀夫監督が同じ原作を映画化するにあたって必要だったのは、先行作の再現ではなく、そのジャンル的文法から抜け出すことだったはずだ。 城定監督は、大金の入ったバッグと欲望に取りつかれた人間たちの群像劇の骨格を受け継ぎながら、それらを動かす感情とリズムを変えてみせた。「藁にもすがる獣たち」Ⓒ曽根圭介/講談社 Ⓒ2026「藁にもすがる獣たち」製作委員会 韓国版が崖っぷちに追い込まれた人間たちの欲望を破滅の重みで押し潰していったとすれば、日本版はそれでも金を手放せず、走り、転び、殴り合う彼らの姿から活劇と笑いを引き出している。人間の欲望から生まれる悲劇を喜劇へ、「絶望の重力」を「肉体の運動」へと転換することで、先行作の文法を飛び越えたのである。1億円入りのバッグ巡る不穏な喜劇 日本版の中心にいるのは、ネットカフェで1億円の入ったバッグを発見する大学生、佐藤寛治(鈴鹿央士)、ヤクザから借りた金のせいで窮地に陥った悪徳刑事、江波戸良介(成宮寛貴)、そして金のためなら何でもやりかねないし~な(森七菜)だ。 そこに借金に追われる主婦、美奈(MEGUMI)、江波戸にヤクザの情報を流すデメキン(二ノ宮隆太郎)、寛治の祖母、富子(風吹ジュン)らが絡んでくる。そして、人から人へと渡っていく現金のバッグが、この映画の不穏な喜劇性を具体的な形にしていく。 韓国版にもブラックコメディーの気配はある。しかし、貧困と借金、暴力と死が生み出す重力は強い。笑いが漏れ出したとしても、すぐさま破滅がそれをのみ込んでしまう。「藁にもすがる獣たち」Ⓒ曽根圭介/講談社 Ⓒ2026「藁にもすがる獣たち」製作委員会 対して城定監督は暴力を減らすことなしに、それを見る角度を変えている。その方向性を最も過激に推し進めるのが、ヤクザのエリンギ(青木マッチョ)だ。巨体におかっぱ頭というこの男の趣味は生け花。だから花切りナイフも木の枝も凶器になる。 デメキンが運転する車の後部座席で江波戸と死闘を繰り広げ、転げ落ちてもなお、走り去る車を生身で追いかける。やがてデメキンが気絶してかじを失った車が映画館の客席に突っ込むと、江波戸とエリンギが血まみれで客席を駆け回り、観客が悲鳴を上げて逃げ惑う。その一方で、観客の何人かはスマートフォンを向けて目の前の光景を撮影している。 スクリーンにはよりによって、深作欣二監督の「仁義なき戦い」が映し出されている。スクリーンの中の犯罪映画の暴力が客席での大乱闘の見せ物へと変貌し、目の前の血まみれの闘いさえスペクタクルになってしまうのだ。まさしく21世紀の日本喜劇映画史に残る名場面である。機械的反復と序列の転倒 特筆すべきは、城定監督が暴力を執拗(しつよう)に反復させることによって笑いを生み出している点だ。 フランスの哲学者、ベルクソンは「笑い」において、生きた人間に機械的な反復が現れるとき、そこに喜劇性が生じると考えた。殴られ、転び、金を奪われても、またバッグを追いかける登場人物たちが、ある瞬間から切迫した人間というより、欲望に操られる自動人形のように見え始める。「藁にもすがる獣たち」Ⓒ曽根圭介/講談社 Ⓒ2026「藁にもすがる獣たち」製作委員会 そこにロシアの哲学者、バフチンがカーニバルに見いだした序列の転倒が重なる。刑事とヤクザ、平凡な青年と犯罪者の間にあった序列は一気に崩れる。金を前にすれば、誰もが同じように右往左往する肉体になる。 こうした例は、ハリウッドのブラックコメディーにも珍しくない。たとえばコーエン兄弟が監督した「バーン・アフター・リーディング」を思い出してみよう。 ほとんど価値のない情報が入ったディスクを国家機密だと思い込んだ人間たちが、金と欲望に駆られて脅迫や取引に手を出し、小さな勘違いが殺人まで引き起こす巨大な騒動へと膨れ上がっていく。 重要なのは事件が深刻になったからといって、映画まで深刻になるわけではないということだ。彼らは常に状況を読み違え、その度に失敗し、また見当違いの行動を始める。その反復の中でスパイスリラーの権威は崩れ、諜報(ちょうほう)戦は「無能な人間たちのフリークショー」へと変わる。中年男から学生YouTuberへ 「藁にもすがる獣たち」も、一見すると犯罪映画の外皮を保っているようで、その内側では重力が反転している。「藁にもすがる獣たち」Ⓒ曽根圭介/講談社 Ⓒ2026「藁にもすがる獣たち」製作委員会 人が死に、金のために裏切りながらも、登場人物たちが同じ欲望に何度も足をすくわれる瞬間、犯罪の因果よりも人間の愚かさが前面に噴き出してくる。 ただし違いはある。コーエン兄弟が冷笑的な観察と誤解の連鎖から笑いを作るのに対し、城定監督はカーチェイスと乱闘、走っては転ぶ俳優たちの身体を積極的に使っている。ブラックコメディーの原理をスラップスティックとして解釈したわけだ。 韓国版からの人物設定の変更も、映画の温度を変えている。現金のバッグを発見するジュンマン(ペ・ソンウ)は家族の暮らしを背負った銭湯手伝いの中年男だが、日本版の寛治は登録者数がわずか2けたの大学生YouTuberである。思いがけず1億円を目の前にして後先も考えず手を出したくせに、事態を引き受ける度胸はない。これによって生計の重みは薄れ、映画そのものの運動性が最大限に引き出された。 さらに認知症の兆候がある祖母、富子と2人暮らしという設定が加わった。富子の存在は、寛治を単なる韓国版ジュンマンの若者版にはとどめていない。富子は記憶もおぼつかない老人かと思えば、意外な瞬間に孫の虚勢を打ち砕く。自分が祖母を守る側に立とうとした寛治が、逆に未熟な子どものように見えてくる逆転も面白い。富子は犯罪劇の中に、世代関係がひっくり返る痛快なホームコメディーのリズムを持ち込んでいる。「藁にもすがる獣たち」Ⓒ曽根圭介/講談社 Ⓒ2026「藁にもすがる獣たち」製作委員会 し~なにとって金は欲望の対象であると同時に、他人を動かす言語でもある。彼女は美奈に、金がないから弱いのだと言い、保険金を狙う計画へと引きずり込む。実は金よりも今の暮らしから抜け出す出口を求めていた美奈の不満を、犯罪のテコとして利用するのだ。相手が何によって揺らぐのかを見抜き、その弱点を金に換算するところに、し~なの危なさは鮮明に表れる。プログラムピクチャーの再生 城定監督は当初から100分を超えない娯楽映画を念頭に置いていたという。だからこそ事件も人物も多い群像劇で、それぞれの事情を逐一説明するのではなく、行動によって性格を見せ、すぐ次の衝突へと移る。 これは成功している。かつて日本大衆映画の中心にあった「プログラムピクチャー」の即効性のある娯楽性をよみがえらせようとした意図は、このテンポによって具体的な映画の形を得ている。 「仁義なき戦い」がクライマックスのスクリーンに映っていることを、単なる映画マニア的な引用として片づけられない理由もここにある。 深作監督の作品は、従来のヤクザ映画が抱えていた義理と組織の神話を突き崩し、英雄的な俠客(きょうかく)に代わって利害と生存のため互いに食い合う人間たちを前面に押し出し、1970年代の東映の実録ヤクザ映画を代表するジャンルの文法を作り上げた。「藁にもすがる獣たち」Ⓒ曽根圭介/講談社 Ⓒ2026「藁にもすがる獣たち」製作委員会 その半世紀後、同作が流れるスクリーンの前で、刑事とヤクザが現金のバッグ一つをめぐって客席を駆け回っている。かつての凄惨(せいさん)な生存劇と現代の大乱闘喜劇が、同じ空間で正面衝突する。 しかも車が突っ込み、客席での乱闘が撮影されたのは、閉館したばかりの映画館、東京・丸の内TOEIである。ここはかつて、東映の大衆映画を上映してきた。その場所を新たなジャンル映画のセットに変え、そのスクリーンには東映ジャンル映画史を代表する作品を再びかける。驚くべき企画だ。不穏な想像力が必要だ それに応えるように、城定監督は「仁義なき戦い」を崇拝の対象として祭り上げるのではなく、現在進行形の活劇へと引きずり込む。過去のジャンルと、それを上映してきた空間を同時に再利用し、映画史の記憶までも新たな見せ物へと変えてしまった。これはひとつの快挙である。 城定監督が「同じものを作っても仕方がない」という趣旨のことを語ったのも、単なるリメーク論にはとどまらない。すでに作られた物語をどこまで忠実に再現するかではなく、それを使ってどのような映画を新たに繰り広げるかを選んだのだ。「藁にもすがる獣たち」Ⓒ曽根圭介/講談社 Ⓒ2026「藁にもすがる獣たち」製作委員会 韓国犯罪映画のリメークから出発し、日本のプログラムピクチャー、さらには実録ヤクザ映画の記憶まで引きずり込んだ「藁にもすがる獣たち」は、異なる時代とジャンルをためらうことなく混ぜ合わせている。 なじみのある物語をもう一度映画にするために必要なのは、忠実さよりも不穏な想像力なのかもしれない。この映画は、そのことを実に愉快に証明してみせている。 この驚くべき21世紀日本映画の大衆的実験、その乱暴な変奏をぜひ劇場で確かめてほしい。2000円の鑑賞料をはるかに上回る満足が、利息までついて返ってくるはずだ。(洪相鉉)