映画の推し事:故郷でたどる初恋の記憶 “傷つく体力”をなくした大人たちへ「ひとりたび」

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「ひとりたび」©Ippo 石橋夕帆監督の「ひとりたび」を見ながら思い出したのは、中国の文豪、魯迅だった。 短編「故郷」の主人公は、久しぶりに戻った故郷の風景を眺めながら、複雑な感情を吐露する。子供時代の思い出と、目の前に広がる現実が生み出す認知的不協和。 幼なじみの閏土もまた同じだ。少年時代の英雄は消え去り、目の前に立っているのは生活に疲れた中年の「百姓」である。だからといって故郷への感情まで消えてしまうわけではない。むしろ郷愁と幻滅、愛着と距離感が入り交じったまま、より鮮明に心の中へ残り続ける。Advertisement 帰る時はうれしい。しかし、結局は何らかの理由で耐えきれなくなり、再び去ることになる場所。それにもかかわらず完全に断ち切ることのできない、記憶そのものでもある。心が動く瞬間への視線 「ひとりたび」で、2024年の第29回釜山国際映画祭ジソク賞にノミネートされた石橋監督は、当時行ったインタビューのなかで、幼少期を過ごした神奈川県の海辺の町について何度も語っていた。 「今はそこを離れ東京で活動しているが、自分の映画を動かしている源泉はいまもその場所に残っている」 興味深いのは、その記憶が必ずしも美しいものばかりではなかった点だ。彼女は海辺の町特有の閉鎖性や息苦しさ、そしてそれでも決して消えることのない愛着について語っていた。離れたかったはずなのに、なお何度も振り返る。「ひとりたび」はまさにそうした感情によって生まれた作品だった。「ひとりたび」©Ippo 長編デビュー作「左様なら」の舞台もまた海辺の小都市である。そこで彼女は、誰かの死をきっかけに揺れ動く高校生たちと共同体の感情を描き出した。第2作となる長編「朝がくるとむなしくなる」では、会社を辞めた若い女性の喪失と回復を描き、大阪アジアン映画祭でも高く評価された。 こうしたフィルモグラフィーに一貫して見られるのは、大きな事件よりも、人の心が少しずつ動く瞬間に焦点を当てる視線である。 誰かを失った後の空白。社会からこぼれ落ちた後の喪失感。途切れていた関係が再び結び直される過程。 石橋監督は静かな視線で、それらとそれを取り巻く人々の内面を見つめ続けてきた。自分を理解するための旅 「ひとりたび」もまた同様である。ここでも劇的な事件ではなく、人物の動きと風景の変化に焦点を当てている。 退職し、この10年の人生そのものが揺らぐ時期を迎えた主人公、美咲(岡本玲)は、最後に残っていた未練の糸さえも完全に断ち切られたことを実感しながら故郷へ向かう。そこで家族や友人たちと再会し、中学校の同窓会で初恋の相手、圭一の死を知ることになる。「ひとりたび」©Ippo もちろん映画の視線の向かう先は、過去そのものにとどまらない。美咲が見つけ出すのは、すでに失われた初恋ではなく、いまなお彼を忘れずにいる自分自身だからだ。そうした理由から、「ひとりたび」では事件よりも時間の方が大きな比重を占めている。登場人物たちは絶えず動き、会話を交わしているが、映画は決して急がない。 風景を見つめる視線、旧友との交流、簡単には説明できない沈黙。それらが少しずつ積み重ねられていく。そして観客はいつの間にか、その行間に自らの記憶が入り込んでいることに気づく。離れてきた場所と記憶を見つめる 石橋監督の作品のもう一つの特徴は、人物に先んじて場所の印象が残ることだ。 「ひとりたび」の登場人物たちは、「左様なら」の小田原や「朝がくるとむなしくなる」の首都圏郊外の街並みと同様に、特定の場所と切り離されることなく存在している。その土地が持つ空気や匂い、温度までもが映画のなかに刻み込まれているのだ。 「左様なら」が教室という小さな世界を通して青春の不安と喪失を描いたのだとすれば、第2作は行き場を失った若者たちの空虚さと回復を見つめていた。 そして本作で監督が見つめているのは、人間が離れてきた場所と記憶そのものだ。 もちろん、「ひとりたび」の魅力はそれだけではない。石橋監督によれば、彼女の映画に登場するのは、あくまでも「他人」である。自己投影的な人物、いわばペルソナを作りたくないからだ。「ひとりたび」©Ippo インタビューでもすでに語られているように、監督は自分自身を描くことよりも、他者を理解することに関心を抱いている。そのため、登場人物の感情を過度に説明することはなく、カメラもまた人物に寄りかかりすぎないよう意識されている。 代わりに、その人物がどのような環境で生きてきたのか、どのような価値観を持ち、どのように行動するかをプリプロダクションの段階で丁寧に構築し、物語が自然に流れていくようにしている。 彼女の映画が持つ独特の温度は、まさにそこから生まれているのだろう。実際、「ひとりたび」の登場人物たちは決して監督の代弁者のようなセリフを語らず、特定の感情へと回収されることもない。ただ映画の時間を静かに生きているだけである。 もっとも、監督の意図に従うならば、私たちもまた彼らを理解するために一定の時間を費やさなければならない。その過程で得られる喜びを思えば、決して惜しくはない。大人になると、傷つく体力がなくなる こうしたアプローチはキャストとの仕事にも表れている。監督は撮影に入る前に俳優たちと長い時間をかけて対話を重ねる。作品や役柄についてだけではない。これまで感じてきたこと、人生に対する姿勢、ときには何気ない雑談まで。 そうした会話のひとつひとつが、結果として「ひとりたび」をより豊かな作品へと導いている。 岡本玲が演じた美咲もまた、そうした過程を経て形作られた人物だった。石橋監督は岡本と何度も会い、お互いの考えを共有し、舞台を見に行くなど一緒に時間を過ごしながら、自然に人物への理解を深めていったという。「ひとりたび」©Ippo そしてその過程で2人が深く共感し、映画のなかにも反映されたという次の言葉は、とりわけ強く胸を打つ。 「大人になると、傷つく体力がなくなる」 考えてみれば、誰にとってもそれほど遠い感覚ではないだろう。一日をやり過ごすだけで精いっぱいになる年齢になると、人は新たな傷を受け入れるよりも感情に蓋(ふた)をすることを選ぶ。平気なふりをし、忘れたふりをし、過ぎたことだと自分に言い聞かせる。 しかし、そうして押し込めた感情が完全に消えてしまうことはない。むしろ心のどこかに残り続け、思いがけない瞬間に再び姿を現す。石橋監督と岡本が深く共感したその言葉は、「ひとりたび」全体を貫く感情でもあるのだ。不在を抱えて生きていく 美咲もまたそうした人物である。彼女の人生が、完全に壊れてしまったわけではない。しかし彼女は、仕事と恋愛、未来と現在のあいだで少しずつ疲弊している。 故郷へ向かう旅は帰省ではなく、目を背けることのできなくなった自分自身の感情と向き合い、現在の自分を理解するための過程となる。去った人は戻らず、過ぎ去った時間もまた取り戻せない。それでも、その不在を抱えながら生きていく今を受け入れることは尊い。 劇場を後にしたあと、ふと子供時代の路地や昔の友人、あるいは長い間思い出すことのなかった誰かのことを考えてしまう。釜山で初めて出合ったこの胸を打つ作品が、長い待ち時間を経てようやく観客のもとへ届く。その時間には十分な価値があったと実感しつつ、お薦めしたい一本である。(洪相鉉)