都市計画のパイオニア 100年先の大阪を見据えた片岡安

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片岡安=常翔学園提供 1920~30年代の大阪市は、第一次世界大戦などの軍需景気で工業が発展し、急増した人口と拡張した市域が当時の東京市を上回り「大大阪」と呼ばれた時代だ。 同時に急成長による多くの都市問題が噴出したが、それに正面から取り組んだのが片岡安(やすし)だった。Advertisement 今年は常翔学園・大阪工業大学の前身、関西工学専修学校の創設者・初代校長で近代大阪の礎を築いた建築家、片岡安(1876~1946)の生誕150年、没後80年にあたる 関連記事 「大大阪」支えたマルチ知性・片岡安 生誕150年に学ぶ先駆性 近代日本の都市計画のパイオニアで、東京市にだけあった建築規則を大阪など6大都市に準用するように内務省に働きかけ、それが都市計画法につながった。住宅問題や災害に強い都市づくりを早くから訴え、「100年先の大阪を見据えた街づくり」を考えたと言われる。 多くの名建築を残した建築家でもあったが、都市全体や社会、人の暮らしまでも考える広い視野を持ち、特に関東大震災(23年)などの体験から耐震・耐火の都市防災の重要性も訴えた。片岡が残した兵庫県芦屋市の芦屋仏教会館(27年完成)は当時既に免震機能を取り入れ、95年の阪神大震災でも被害が小さく、まさに「100年建築」だった。片岡の先見性は第二次世界大戦の前から「焼夷(しょうい)弾を落とされたら大阪は壊滅する」と警鐘を鳴らしたことにも表れている。1937年の御堂筋=毎日新聞社機から撮影 大阪の100年を見越した代表的な業績が、「飛行場でも作るのか」と批判されながら当時の関一市長とともに取り組んだ御堂筋の44メートルへの拡幅整備だ。また、街の景観にこだわったことも先駆的で、御堂筋沿いの建物の高さを百尺(30・3メートル)にそろえた美しい街並みは、制定に関わった市街地建築物法による。 大阪の近代化の現場に技術人材が足りないとみると実業家の視点を発揮し、関西工学専修学校を創設。当初1年制の夜学にもかかわらず講師陣に東京帝大や京都帝大出身の大阪府・市の技師たちをそろえ、即戦力で本格的な技術人材育成を求めた本気度がうかがえる。広い人脈と政治力も持ち、信念を次々に実行。スケールの大きな、今でいう文理融合のマルチな知性だった。片岡安の歩み1876年 加賀藩士細野直重の子として金沢市で誕生1897年 東京帝国大工科大学造家学科卒業。日本銀行技師に1899年 日本生命保険副社長片岡直温の婿養子に1905年 辰野金吾と辰野片岡建築事務所(大阪)を開設1912年 大阪市中央公会堂指名コンペの一員に。実施設計者を担当1916年 日本初の都市計画の啓蒙(けいもう)書「現代都市之研究」出版1917年 関西建築協会(後に日本建築協会)創立、初代理事長に1918年 内務省都市計画調査会委員、社団法人大阪工業会常務理事1919年 日本生命保険取締役1920年 東京帝国大より工学博士号(論文名「都市計画ノ科学的考察」)1922年 片岡建築事務所を開設。京都帝国大建築学科講師、社団法人大阪工業会会長。関西工学専修学校初代校長に就任1923年 大阪信用組合(現・大阪信用金庫)組合長1927年 石本喜久治と片岡石本建築事務所を設立1934年 金沢市長1940年 第13代の大阪商工会議所会頭1946年 69歳で死去ヨーロッパの宮殿のようなシャンデリアや回廊で構成されている大阪市中央公会堂の中集会室=大阪市北区で2022年5月6日、三村政司撮影大阪市中央公会堂で記念シンポ 片岡安生誕150年・没後80年の記念イベントが11月21日、片岡が実施設計を手掛けた大阪市中央公会堂(大阪市北区、国重要文化財)である。 「大大阪と片岡安」をテーマに倉方俊輔・大阪公立大教授ら建築史や都市計画の専門家による講演やシンポジウムを開催。公会堂の見学会もある。 主催は常翔学園(事業企画課、電話06・6954・4003)。