キャンパる:GHQ流統治に感じた恩恵と違和感 戦後の婦人行政草創期を回想

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戦争の記憶は今も心にあり、東京の街中を歩くと「ここら辺は空襲で何人の人が亡くなったのだろうと考えてしまう」と話す石井さん=東京都目黒区で、上智大・清水春喜撮影 太平洋戦争下で思春期を過ごし、戦後はGHQ(連合国軍総司令部)主導で設立された労働省(当時)の婦人少年局で女性の地位向上に奔走した女性がいる。1929(昭和4)年生まれで、現在、東京都に住む石井清子さん(97)だ。言論統制と飢餓が日常だった時代を生き抜き、戦後は米国流の統治も肌で経験した石井さんに、当時を振り返っていただいた。【日本大・小川陽香(キャンパる編集部)】英語を学ぶ夢破れて 石井さんは子どもの頃、父、母、3人の兄との6人家族だった。父は当時の農林省に所属し、都内に住んでいたが、太平洋戦争が始まった頃、仕事で中国に滞在していた。日本にとどまった石井さんは41年、ミッション系の立教女学院に入学。同年、太平洋戦争が始まった。石井さんは英語を学んで津田英学塾(現在の津田塾大学)に進学することを目指していた。Advertisement しかし、戦争によって石井さんの青春は戦争一色となった。2年生の頃に英語を含む既存の授業が廃止になり、外国人教師はいつの間にかいなくなっていた。「英語を学びたくても学ぶ時間はなかったし、英語を学んでいることを知られたら国賊とみなされた」と語る。3年生の頃には学校が軍需工場として利用され、石井さんも天体観測器を作らされていたという。勤労奉仕に動員された女子生徒たち。工場だけでなく、教室でも飛行機部品の生産が行われた=1944年撮影つらい飢餓の記憶と言論統制 3人の兄もそれぞれ家を出て、石井さんは母と2人暮らしだった。戦時中一番つらかったことは「飢餓」だったと話す。普段の配給はイモが主だが「空襲が激化するとともに、配給されない日もあった。一本のイモを母と分けた」。体力は落ち、手をつきながらでないと階段を上れなかった。石井さんの足首には、栄養失調の時に負った傷のかさぶた痕がまだ残っている。 空襲に遭い、生徒が慌ただしく避難している中、ある生徒がつぶやいた。「これ、日本負けるんじゃないかしら?」。その瞬間、空気が張り詰めた。当時は誰もが自分の意見を自由に言っていい状況ではなかったからだ。日常的に言論統制が浸透していた。「戦争中の日本を想像するのは難しいと思うが、異常だった。でも生まれた時からそうだったので、なにも疑問に思わなかった」と当時を振り返る。 空襲が激化し、終戦2カ月前に石井さんは母とともに母の故郷である仙台市に疎開。終戦後は、宮城県の女子専門学校に通いながら東北大学法文学部の桑原武夫助教授の仕事の手伝いでフランス語を訳すなどしていた。婦人少年局の事務官として勤務していた当時に、朝日新聞の取材を受けた石井さん。笑顔で応える様子が写真に収められた=次女の石井育子さん提供「食べていくため」に選んだ仕事 卒業後の47年、18歳の時にNHKのラジオ放送局に勤めたが、新設されたばかりの労働省婦人少年局に転職した。本当は気が進まなかったが「母とともに食べていくためには、給料の良い職業に就くしかなかった」という。 婦人少年局の設立は47年で、GHQの強い指導によるものだった。同局では女性の地位向上を掲げ、石井さんらは製糸工場や病院で働く看護師など働く女性を対象に、雇用主が労働基準法を守っているか、劣悪な労働環境におかれていないか、全国を回りながら調査した。 毎月GHQに報告をし、次の仕事を与えられる。「こちらは労働環境を調べに行っているのに、夜行列車に乗り全国を回っていたため、むしろ自分たちが法に反する働き方をしているのではないかと思った」と笑いながら話してくれた。婦人少年局長時代の山川菊栄氏=1947年ごろ撮影「リーダー」に感じた信念と優しさ 婦人少年局の初代局長を務めたのは、戦前から女性運動の指導者として活躍していた山川菊栄氏(80年に89歳で死去)だった。山川氏は、男女間の賃金格差の是正や労働条件の改善などの課題に精力的に取り組んだ。石井さんから見た山川氏は、男女の不平等是正にかける強い信念を感じる一方で、とても優しい人だったという。山川氏とは地方出張の機会が多かった。「温泉で私がのぼせた時に、ツボを押してもらった」と思い出を語ってくれた。婦人少年局では、山川菊栄・初代局長の下で勤務した。女性運動のリーダーとして名高い山川氏は、とても優しく頼りになる人だったと振り返る石井さん=東京都目黒区で、上智大・清水春喜撮影感じたありがたみと認識のズレ GHQ仕込みの知識で、職場での会議や、会議での発言の仕方を指導して回ったことも鮮明に覚えている。「ラウンドテーブルディスカッション」という名前で、現代では当たり前の、参加者が互いに意見を言い合うことだった。戦時中までの言論統制下では「自分の意見を言うことに誰も慣れていなかった。ある意味、GHQによって発言することを許されたようなもの」と石井さんは語る。「一人の人が発言をしたら、別の人が意見を言うんですよ」と指導したという。 一方で、この婦人少年局に違和感を持ったこともあるという。それは女性の地位に対する見方だった。「戦時中から日本の女性は男性の代わりに工場で働いてきた。女性が働くシステムは確立されていた」と石井さんは言う。 そのため、米国そしてGHQが考えるステレオタイプの「抑圧された女性像」とはズレがあった。石井さん自身女性の地位が低いと感じることはなかったという。当時の日本を石井さんは「軍国主義から民主主義への移り変わりは目まぐるしく、とにかく混沌(こんとん)としていた」と振り返る。数カ月に1回行われる労働省全体の会議で発言する石井さん(左端)。職員が労働基準法に違反しないよう、意識を高める会議だったという=次女の石井育子さん提供「戦争は人の心をなくす」 その後、地理学者である石井素介さん(故人)と結婚。素介さんの仕事の都合で2人の娘とともに家族4人で2年、また夫婦2人でも2年、合計4年ドイツで暮らした。ドイツでの暮らしの中では、主婦同士で政治の話をすることもあった。夫婦でも戦争や民主主義についてドライブしながら話していたという。「民主主義とは何だろう」。この話は2人のなかで答えが出ないままだった。 石井さんは現在、東京都目黒区の老人ホームで暮らしている。毎朝5時に起床しホームの周りを歩いているとのことで、とてもお元気だ。現在の日本国内の状況について不安を感じるのは、防衛費の増額だという。「軍事費に税金を使うのではなく高齢化社会で誰もが人としての尊厳が守られるように国民のために使ってほしい」 言論統制や教育を含む政府の強権的な取り組みをおかしいと思わない世の中、それは戦争があったからだった。「戦争は人間の心をなくす」。石井さんは取材の中で繰り返しこう語った。「私にもしもまだ余生があるとしたら、それをお返ししてでも戦争には反対したい」