日本の隣にあった「緑のウクライナ」なぜ消えた? 絶たれた希望

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毎日新聞 2026/7/19 06:00(最終更新 7/19 06:00) 有料記事 2511文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷「緑のウクライナ」と呼ばれた地域とウクライナ人の移動航路 4年以上にわたりロシアの侵攻を受けるウクライナ。 日本とは遠く離れているが、かつて極東にウクライナ人の一大コミュニティーがあった。 「緑のウクライナ」だ。 隣国の日本とどのような関わりがあったのか。なぜこのコミュニティーは消えてしまったのか。知られざる歴史をたどる。 前後編の前編です 後編 旧満州で発刊された「幻の辞書」(26日午前6時配信予定)ロシア帝国の入植政策で ロシア極東アムール州、ウクラインカ。今、ここの空軍基地から飛び立つ戦略爆撃機が約6000キロ離れたウクライナを攻撃している。 ロシア欧州部(ウラル山脈以西)のほぼ全域がドローンを使ったウクライナ軍の反撃にさらされるようになり、同基地の重要性は増している。このウクラインカの地名こそ、極東にあったウクライナを今に伝えるものだ。 そもそも、なぜウクライナ人が極東にいたのか。 時は19世紀半ばにさかのぼる。 ロシア帝国は、1858年の愛琿(あいぐん)条約と60年の北京条約で、当時の中国を統治していた清国から沿海州など極東に広大な領土を獲得。拡大した領土の農地開発などを目的に、ウクライナ人を欧州部から移住させた。ウクライナ人を故郷から遠ざけ、民族的ルーツを失わせる意図もあった。 無償で土地が供与される特典もあり、多くのウクライナ人が東に向かった。入植先は森林や自然が豊かなことから「緑のウクライナ」と呼ばれるようになったという。大鵬の父も船でウクライナから東方へ その中には、日本の国民栄誉賞を受賞した“英雄”ゆかりの人物もいた。 昭和の大横綱・大鵬の父、マルキアン・ボリシコだ。 ロシアの歴史家ニコライ・ビシネフスキー氏によると、マルキアンは1885年に今のウクライナ東部ハルキウ州ルニウシチナ村の農家に生まれた。少年時代に両親と船でオデーサを出発し、スエズ運河、インド洋を越えてウラジオストクに到着した。 40~45日を要するこの航路は19世紀末にロシアの義勇艦隊が開設し、シベリア鉄道が開通するまでは極東への主要な移動ルートだった。 さらにボリシコ一家はウラジオストクから極東内陸部を経て、94年にサハリン北部に渡った。 マルキアンが“日本”へとやってくるのは40歳の時だ。ソ連体制を嫌って日本統治下の南樺太(現サハリン南部)に移り、そこで知り合った日本人女性の納谷キヨと結婚、1940年に三男・幸喜(のちの大鵬)が生まれた。 第二次大戦後に妻子は北海道へ引き揚げたが、サハリンにとどまったマルキアンは「樺太時代の反ソ宣伝活動」を理由に自由剥奪10年の刑を受けた。恩赦後は博物館の守衛を務め、大鵬が大相撲で幕内初優勝を飾った60年に現地で亡くなった。本国と呼応して自治を求めるも… 「緑のウクライナ」はどのような経過をたどったのか。 19世紀末の統計で、…この記事は有料記事です。残り1344文字(全文2511文字)あわせて読みたいAdvertisement1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>