ヒロシマの座標軸:8月6日、午前8時15分に ビル街の一角で開かれる慰霊祭

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ヒロシマの座標軸毎日新聞 2026/8/15 17:00(最終更新 8/15 17:00) 有料記事 1744文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷献花をする森沢紘三さん(手前)=広島市中区で2026年8月6日午前8時19分、宇城昇撮影 広島市役所の近く、マンションやオフィスビルが建ち並ぶ一角に、「雑魚場(ざこば)疎開地跡」と彫られた小さな石柱が建つ。米軍による広島への原爆投下から81年となった「原爆の日」の8月6日午前8時15分。平和記念公園では市主催の平和記念式典が開かれているこの時間、この場所に、来なければならない人たちがいた。 敷地の奥には古びた荒神堂があり、そばの慰霊碑には千羽鶴がささげられていた。早朝から快晴。テントの下に椅子が並び、慰霊祭の準備が始まっていた。 午前7時半過ぎ、黒い上着を羽織った森沢紘三さん(83)=広島市西区=が姿を見せた。「姉さんから『ちゃんとした格好で』と言われている気がして」と話しながら、噴き出る汗を拭った。14歳で逝った姉・妙子さんを弔うため、慰霊祭に毎年参列してきた。中学生ら1749人が犠牲に 1945年8月6日朝、広島市内では空襲に備えて防火帯を築く「建物疎開」の作業に、中学生や女学生らが複数箇所へ動員されていた。雑魚場町(現・中区国泰寺町)の現場は原爆の爆心地から南に約1キロ。原爆資料館が2004年に開いた企画展は、この地では最多の12校2331人が作業中で、熱線と爆風の直撃で1749人が命を奪われたと記した。犠牲になった生徒を悼んで慰霊碑が建立され、遺族や学校関係者が慰霊祭を続けてきた。 「2歳だった私に原爆の記憶はありません。姉の顔も思い出せない……」。妙子さんの最期はノンフィクション作家、関千枝子さんの代表作「広島第二県女二年西組」に詳しい。 あの朝、県立広島第二高等女学校2年西組の生徒39人が現場におり、うち38人が2週間以内に亡くなった。大やけどを負った妙子さんを父の雄三さん(故人)が救護所で見つけて自宅に連れ帰ったが、8日午前に息を引き取った。助かった生徒の1人は記者→作家に 作業を欠席して助かった生徒が7人いた。その1人だった関さんは毎日新聞記者を経て作家に。生き残った負い目に苦しみ、戦後30年以上もたって級友一人一人の最期を取材し、10年がかりで1冊にまとめた。 森沢さんのもう一人の姉、照恵さん(当時18歳)も勤め先から帰ってこなかった。…この記事は有料記事です。残り845文字(全文1744文字)【前の記事】揺れる非核三原則 核廃絶の潮流に逆らう被爆国関連記事【最新記事】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>