父の戦死 5年後の知らせ 待ち続けた87歳がいま伝えたいこと

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現場から2026年8月15日 8時00分有料記事奈良美里増川計さんの父・哲一さん=2026年8月4日午後0時29分、広島市、奈良美里撮影 2024年2月、パプアニューギニア。雨期の蒸し暑さがまとわりつく中。海を見下ろす丘の祭壇に向かって叫んだ。「おとうさーん」生まれてから一度も呼んだことのない父だった。どうしても呼びかけたいと、増川計さん(87)は日本遺族会の慰霊巡拝に加わった。 父の遺骨は今も戻っていない。戦時中にどこを移動したのか、亡くなったとされる野戦病院がどこにあったのか。よくわからないままだ。なにより「情けない」と感じるのは、父の死の知らせが届いたのが、亡くなって5年もたった後だった、ということだ。 終戦から81年。増川さんは15日、そんな思いを胸に東京・日本武道館で開かれる全国戦没者追悼式に参列する予定だ。生後7か月で 増川さんは1939年、現在の広島市安佐北区にある山あいの集落に生まれた。祖父母と父、母の5人家族だった。父・哲一さんが陸軍に召集されたのは増川さんが生後7カ月の時だった。 父の記憶はない。広島県の宇品港を出たあと、中国やビルマ(現ミャンマー)へと移動したようだ。一度も日本に戻らないまま、45年の夏を迎えたという。 45年8月6日の朝。小学校1年生だった増川さんは、先生に頼まれて友達と野草を採りに出ていた。広島市の中心部からは25キロほど離れた場所だった。旧市内の方向に強烈な光を見た。 その後、雨が降り始めた。急いで家に駆け込んだ。家の白い壁に、黒い雨が線を描くように残っていた。 近くの学校や寺にやけどをした被爆者が運び込まれた。近隣の母親たちがかり出された。近所の年上の子どもたちも手伝いに行き、患者の傷にわいたウジをとって看病したと聞いた。「いかに人間がむごい死に方をしたんだろう」と感じた。 終戦を迎えても、父は戻ってこなかった。家族は待ち続けた。「生きとる。帰ってくる、帰ってくるって待ちよった」。父の消息を知る人がいないかと、必死で尋ね歩く母の後をついて歩いた。「むちゃくちゃなことよね」 父の消息がわかったのは、終…【この記事の続きが読める】有料記事が読み放題のスタンダードコースが初回1カ月無料!詳しくはこちら宅配紙面の購読者なら、ダブルコース半年割がお得です。詳しくはこちらこの記事を書いた人奈良美里くらし科学医療部|厚生労働省専門・関心分野人権、福祉、障害関連トピック・ジャンルこんな特集も注目ニュースが1分でわかるニュースの要点へ8月15日 (土)千葉豪雨8人死亡 1人行方不明きょう、終戦81年小中学校 授業数を削減可能に8月14日 (金)プーチン氏 北方領土を初訪問患者のX線画像、流出の疑いプールに「多目的更衣室」8月13日 (木)トヨタ元社長が死去日航ジャンボ機墜落から41年企業倒産が14年ぶり高水準8月12日 (水)イオン再入館「認めた」日航機墜落事故 きょう41年原爆ドーム 世界遺産30年トップニューストップページへ「正義の戦争は絶対ない」101歳が見た地獄 なお発掘される証言6:00氾濫対策「完了したところで不十分」 基準、雨量増加に追いつかず6:00ロシア外相、茂木外相の発言否定 侵攻後の初接触は「握手しただけ」5:30ラブホテルから会見、たばこ吸う 秋田県職員を停職6カ月、降格処分18:11「コンビニ人間」英訳者が悩んだ音の表現 マニュアル言葉どう訳せば8:00どんぐり700キロ集めて40円 褒めて利用された子どもの「純情」6:50