キャンパる:戦時下の苦境を生き延びた聴覚障害者 苦難を手話映像で語り継ぐ

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聴覚障害者の証言を文章ではなく映像で残した理由は「手話をそのまま見てほしいから」だと話す針山さん=富山市で、早稲田大・奥村慎撮影 太平洋戦争下、聴覚障害者は耳が不自由なため空襲に気づかなかったり、聴力が理由で徴兵されないことを理不尽に責められたりする厳しい現実を生きていた。そうした聴覚障害者の戦争体験を映像に記録し続けてきたのが、富山市在住の針山和雄さん(78)だ。映像に残された聴覚障害者の皆さんの証言をたどり、針山さんの思いに耳を傾けた。【東京女子大・礒辺華帆(キャンパる編集部)】富山大空襲を乗り越えて 針山さんは富山聴覚総合支援学校の元教員で、ボランティア団体「富山市手話サークルとわの会」に所属している。針山さんが証言映像の撮影を始めたのは1995年ごろから。同会で聴覚障害者の方から戦時中に味わった苦難の話を聞いて衝撃を受けた針山さんは、その体験を勤務先の生徒に文化祭で話してほしいと依頼した。そして文化祭で手話の分からない保護者向けに手話通訳を担当したことが、富山県で戦火を生き抜いた聴覚障害者の方々の証言映像作りのきっかけになった。Advertisement 映像には、45(昭和20)年8月2日未明に襲来した米爆撃機B29の大編隊による富山大空襲を生き延びた方々の証言が記録されている。同空襲では、富山市の市街地のほぼすべてが焼失、市内の死者は約3000人を数えた。針山さんが記録・作成した聴覚障害者の証言動画で「戦時下だと、楽しい生活は送れず、夜はゆっくり眠れなかった」と手話で訴える今井英二郎さん「警鐘が聞こえない」中の逃避行 生存者の一人である今井英二郎さん(2011年、90歳で死去)は、妻ともども耳が聞こえず、空襲の警鐘に気づくことができない。警鐘が鳴ったら知らせてほしいと隣人に頼み、夜はすぐ逃げられるよう足に脚絆(きゃはん)を巻き、家の鍵はかけずに寝た。空襲があった夜には実際に隣人に声を掛けてもらい、もうすぐ1歳になる赤ん坊と一緒に防空壕(ごう)に駆け込んだ。 だが今井さんたちを捜しに来た班長さんに、そこは危険だと引っ張り出され、川にかかるアーチ状の鉄橋の下に首まで水につかり、赤ん坊を抱きあげて身を潜めた。橋の下から出ると、赤ん坊は死んだように意識を失っていた。だが、しばらくすると意識が戻りほっとした。道路には大人、子どもに関わらず多くの人や馬が倒れ亡くなっていた。そして、後日確認すると最初に逃げ込んだ防空壕は完全に潰れていたという。空襲で母親と姉、弟の4人で逃げた際、離れ離れにならないよう父の帯でお互いの体を縛ったと話す、竹川秀夫さん(京都で撮影された全国手話通訳問題研究会作成のビデオから)母子の命を守った「父の帯」 この班長さんのように手を差し伸べる人がいた一方で、戦時中、聴覚障害者を見る世間の目は冷淡だった。針山さんによると、「聴力が理由で徴兵されなかったために聴覚障害者の人々は戦争に協力しない非国民、ごくつぶしだとののしられていた」という。また聴覚障害者は名前を呼んでも聞こえないからと、名を呼ぶ代わりに石を投げられるという屈辱も味わった。 同じく生存者の竹川秀夫さん(26年、94歳で死去)は富山大空襲の日、母親と耳の不自由な竹川さんと同じく耳の不自由な姉、そして耳が聞こえる弟の4人で防空壕に逃げた。母親は逃げる際、聞こえない子どもたちは声を掛けても分からないため、4人の体を父の帯で結び合わせた。竹川さんは「首を縛られて殺されるのではないかと思った」と話す。だが、母親に「大事な子どもたちが離れ離れにならないためだよ」と言われ安心したという。「遠く離れた地から、海の向こうの富山市が空襲で爆撃を受け、燃え盛る炎が見えて怖くて恐ろしかった」と語る谷口隆さん。「父親と一緒に全焼しがれきとなった学校を見て悲しかった」という音がなくても重く響く証言 針山さんは15年まで、今井さん、竹川さんなど聴覚障害の戦争体験者7人から証言を聞き取り、合計約4時間分の証言を編集し約30分の動画に編集した。動画のタイトルは「戦後70年 その時富山のろうあ者は」にした。動画はテロップが流れるだけで、音は入らない。ただ、戦争被害だけでなく、情報から切り離されて困惑する聴覚障害者の実態が浮き彫りになるその証言は、音以上に心に重く響く。 針山さんは動画を、手話を学ぶ健常者らが参加する「とわの会」や、県内の聴覚障害者協会主催の「文化のつどい」などで公開してきた。そこには、聴覚障害者の戦争体験を多くの人に知ってもらいたいという思いがある。しかし、今年6月、映像に残る最後の証言者であった竹川さんが亡くなり、「今はビデオでしかその記憶に触れることができなくなった」と針山さんは嘆く。「空襲で来襲したB29は最初に富山駅を爆撃した。その近くに住んでいたため、家族と離れ1人で郊外に逃げた。朝方、知らない人におにぎりをもらって家に帰ると、家族はみな無事だった」と語る吉田嘉徳さん豊かな手話表現が伝える複雑な感情 聴覚障害の児童・生徒を受け入れるろう学校では1933年に当時の鳩山一郎文部相が「手話は国語にあらず」と訓示したことにより、口の動きを見て話す「口話(こうわ)教育」が強制され、手話は長く禁止されていた。針山さんが赴任した73年当時もその方針は続いており、生徒と十分にコミュニケーションが取れない状況に直面した。そこで「とわの会」に通い、自ら手話を学びながら、生徒たちと向き合い続けた。 終戦を国民に告げる45年8月15日の玉音放送はうまく聞き取れなかったものの、それまで威張っていた軍人たちが泣き崩れる姿を見て、あきれ果てた――。証言者が覚えたという複雑な感情も、手話の豊かな表現だからこそ言葉以上の力で、後世に伝えることができる。そして、針山さんによると、映像に収めた竹川さんや今井さんを含め多くの方が、手話で繰り返し「戦争は二度としてはならない」と訴えていたという。満州からの引き揚げを体験し3カ月ほどお風呂に入れなかったと語る多鍋満智子さん「情報格差」は今も 緊急時に警報やサイレンが聞こえない問題は、遠い時代の話ではない。紛争発生時や大規模災害時における情報格差は、現代でも聴覚障害者にとって、国境を超えた大きな課題として残されている。 各国のろう者団体を統括する世界ろう連盟とパレスチナろう連盟が2025年7月に連名で出した報告によると、23年10月に始まったガザ地区での紛争で、翌年2月までに少なくとも子ども、女性、教師を含む170人の聴覚障害者が殺害されたという。また聴覚障害者には光の点滅や文字、色などの視覚情報を使って緊急事態などを伝える視覚的な警報システムが必要だが、ガザでは整備されていないと述べている。 バリアフリーの仕組みが格段に整いつつある現代においても、そこからこぼれ落ちてしまう人がいるという課題は変わっていない。針山さんは、まず手話を学んでいる方たちに、自ら編集した動画を見てほしいと願う。「ろう者が差別されてきた歴史、手話はダメだと言われ続けた時代背景を知った上で、手話を学んでほしい」。そして「さらに多くの人に知ってもらうため、字幕を入れ直すなどしてより分かりやすい映像に編集し直していきたい」と語った。手話で「平和」を表現し、対立は戦争ではなく話し合いで解決していくべきだと話す針山さん=富山市で、早稲田大・奥村慎撮影差別のない世界を 針山さんがカメラを通して向き合った聴覚障害者の戦争体験者は、誰もが「差別のない世界」の実現を望んでいた。針山さんはその思いを踏まえて「平等で仲良く暮らせる社会を作っていかなければならない」と語った。 「小さな差別でも何かのきっかけで暴発すれば戦争につながる」と針山さんは言う。取材の最後に針山さんは、両手の手のひらを下に向けてくっつけ、胸の前から左右に両手を広げた。空中に描かれた平らな線。手話で「平和」を意味する。それを実現することができるのか。今、私たちは問われている。