「重い」と感じた瞬間、実は 従軍看護婦が見た戦争 滋賀で展示

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毎日新聞 2026/7/5 14:15(最終更新 7/5 14:15) 有料記事 1420文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷従軍看護婦の写真や装備について説明する滋賀県平和祈念館の学芸員(中央)=東近江市下中野町で、伊藤信司撮影 企画展示「戦時下の看護」が滋賀県平和祈念館(東近江市下中野町)で開かれている。国内外で傷病兵を救護した女性たちの写真や史料、証言パネルなど約200点を陳列。そこから見えてくるものとは――。【伊藤信司】 明治以降、女性が目指した職業の一つが看護婦(看護師)だった。陸海軍病院、病院船、野戦病院などでは「従軍看護婦」として働き、日中戦争が始まった1937年7月以降は戦地に派遣される看護婦も急増した。日本赤十字社(日赤)滋賀支部からは45年の終戦までに看護婦長47人、看護婦660人が派遣されている。足切断、立ち会い 「兵隊さんだけでなく女でも戦場に行ける――というのは当時の夢だった」 今回の展示で紹介された一人、明治生まれの西浦一ゑさん(甲賀市)はこう回想する。28年に大津赤十字病院の救護看護婦養成所を卒業。37年から中国の戦地に派遣された。出征兵士の家と同じように門口に国旗やのぼりを飾り、近所の人たちに見送られた。西浦さんは赤たすきに従軍記章を付け、「とても誇らしい気持ちでした」。 だが戦場は「夢」のような場所ではなかった。上海の病院で、若い兵士の手術に立ち会った時のこと。軍医の命令で兵士の片足を支えていたところ、急に「重いっ」と感じた。足が切断された瞬間だった。感触が忘れられず、それからは「戦争ってむごい」と思い続けたという。葉でおしめ代用 奥村モト子さん(大津市)は戦時中、朝鮮半島の女学校に通い、病院船で働く従軍看護婦の映画を鑑賞した。その姿に感動し42年、京城(ソウル)にあった日赤の看護婦養成所に入学した。戦場を知る父は強く反対したが、…この記事は有料記事です。残り740文字(全文1420文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>