InMyLife・旅の途中で:「よう、森下!」級友たちとの友情今も バレリーナ森下洋子さん

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舞踊歴75年目を迎えたバレリーナ、森下洋子さん=吉田航太撮影 日本を代表するバレリーナは、人類史上初めて原子爆弾が投下された広島市で生を受けた。3歳で踊り始め、舞踊歴75年目を迎えた森下洋子さん(77)。 肉体を酷使するバレエの世界では、多くが40代半ばでスポットライトに別れを告げるが、森下さんは「まだまだ心と体を磨いていきます」と意欲を見せる。毎日6~7時間の稽古(けいこ)に励み、舞台に立ち続ける森下さんの人生は、芸術へのあくなき探求心と深いバレエ愛で彩られている。 各界で確かな足跡を残してきた方々に、人生という旅について語っていただく新連載「InMyLife・旅の途中で」。第6回に登場いただくのは、バレリーナの森下洋子さんです。もし体操の教室だったら… <父は会社員、母は専業主婦。元々、バレエと縁のある環境ではなかった> 幼少期は体があまりに弱く、両親に抱きかかえられながら病院に行くような子どもでした。お医者様から「運動をさせて体力をつけさせてください」と言われたそうです。 家の前にある幼稚園で、午後から開かれるお稽古教室の一つにバレエがありました。今と比べて、当時はバレエが盛んではなかったのですが、両親は「運動させるのにちょうどいい」と思ったのでしょうね。そこで習い始めました。 もし体操の教室だったら人生が大きく変わっていたと思います。そういう意味では、あの時、バレエの神様が「あなたはバレエをやるのですよ」と仕向けてくれたのだと思っています。広島の人たちの力に励まされ <1945年、ヒロシマに投下された原爆で母と祖母が被爆。自身は被爆2世だ> 「広島市内は75年先まで草木が生えない」とも言われていましたが、物心がついた時には既に街並みは整っていました。すべてが焼け野原になったのに数年で復旧、復興したのは、必死に生きてきた広島人の強さだと思います。 当時は原爆による被害を感じさせないくらい、広島の人たちがみんな必死に前を向いて、強い勇気、意識を持って前に進んでいたのではないでしょうか。その力に励まされて終戦の3年後に生まれた私も、夢中でバレエに打ち込めていたのだと思っています。 今でも公演などで広島に帰ると、知らない方でも「お帰りなさい」と言ってくれます。広島の方々は絆が強く、きょうだいのように思ってくださる。私にとってはすごくうれしいことです。「お金は出すけど、口は出さない」 <小学1年の冬から東京でもレッスンを受けるようになった。小学6年の時に単身上京し、プロのバレリーナとして生きることを決意した> 広島で最初に習っていた葉室潔先生からは、踊る楽しさをたくさん教えていただきました。その葉室先生が、広島で昔からバレエを教えていた洲和みち子先生の教室に連れて行ってくださりました。洲和先生はとても厳しく、子どもに本気で向き合って指導してくださりました。 そして東京の橘秋子先生を紹介していただきました。(国鉄が運行していた)急行「安芸」に乗って、二十数時間かけて向かいました。そこから、夏休みなどの長期休みには、広島から東京へレッスンに通うようになりました。 初めて上京した時、橘先生が母に「お母さんは帰って結構です。娘さんは預かりますから」と言ったので、しばらく、東京に一人で残りレッスンを受けました。 その後は、寝台特急「あさかぜ」や「はやぶさ」で12時間くらいの一人旅。朝は車掌さんが食堂車に連れていってくれるなど、優しくしてもらいました。 普段も長期休みもバレエ漬けでしたが、「バレエができることがなによりもうれしい」と思っていましたね。 小学6年になった時、バレエを一生の仕事としてやっていきたいと両親に頼みました。広島と東京を行ったり来たりするうちに、踊り続…Google検索で「毎日新聞」の記事を優先的に表示できます。【次の記事】「人間の魂の輝き届ける」 舞踊歴75年目、森下洋子さんの願い【前の記事】時代を彩る言葉を紡いで半世紀超 松本隆さんが大切に思うもの関連記事