医師として被爆者医療に携わりながら反戦詩を発表してきた被爆者の故・丸屋博さん。宇城昇記者が取材し、2006年から「ヒバクシャ」で紹介してきた。15年に89歳で亡くなった=広島市東区で2006年9月26日、西村剛撮影 毎日新聞の記録報道「ヒバクシャ」は今秋で掲載開始から20年になります。 終わりはないし、終わらせてはならない。 当初から関わってきた宇城昇記者はそう感じています。 これほど長く続いてきた意味と、この先も続けていく使命感を改めて考えました。8月ジャーナリズムから脱して宇城昇(広島支局専門記者) 掲載は2006年10月から始まった(大阪、西部本社発行紙面。他本社は12年10月から)。広島が郷里の私はその当時、広島支局の中堅記者だった。 戦後60年が過ぎ、新しい形の平和報道を模索していた時期だ。 広島と長崎の原爆を体験した被爆者の証言を報じるにとどまらず、その視座と生き様を通して時代を捉える。カタカナのタイトルは、世界を意識したからだ。 夏の恒例行事のように戦争と平和を題材にした報道が集中する「8月ジャーナリズム」から脱しようと、春夏秋冬に連載記事を載せる。同じ被爆者のもとへ子や孫のような世代の記者が何度も通い、リレーのように次の記者に取材を引き継いでいく――。 被爆者の方々と伴走し、協働しながら取材と掲載は続いてきた。 この夏までの掲載回数は328回。登場していただいた被爆者は82人で、執筆した記者は延べ180人を超える。報じた記事の蓄積と記者の経験は、何物にも代えがたいものだ。近く次の連載を予定している。 私は一線の記者から取材や企画を統括するデスク、所属長である広島支局長などに立場を変えつつ、掲載への関わりが続いてきた。原爆は「終わった問題」ではない 20年間で被爆者を取り巻く状況は変わった。 被爆者健康手帳所持者の平均年齢は06年には73・9歳だったが、今は86・7歳。遠い先に思えていた「被爆者なき時代」は、現実として迫っている。 81年前の広島にいて、幾つかの偶然があって命をつないだ私の祖母と父も、この間に世を去った。 それぞれの記者が取材を続けていた被爆者の訃報も相次ぎ、これまでに40人以上が亡くなった。現在取材に応じていただける方の多くは被爆時には幼少で、惨状や苦難の記憶は乏しい。 同時代の出来事だったヒロシマ、ナガサキが遠景になっていく端境期にあることを感じる。 しかし、被爆者の存在を歴史の一ページにするには早すぎる。放射性物質を含む「黒い雨」に遭った人たちが公的に「被爆者」と認められたのは21年の司法判断だった。 …Google検索で「毎日新聞」の記事を優先的に表示できます。【前の記事】「黒い雨」浴びた記憶と闘病 80歳超の原告が問う「被爆」の線引き関連記事【最新記事】