ヒバクシャ:「死にとうない」 命削って続けた証言 現実としてどう伝えるか

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ヒバクシャ連載の開始に合わせて取材に応じる岸君江さん。足が不自由で、自宅の中でもつえを使っていた=広島県三次市で2006年9月、西村剛撮影 被爆者の人生を追い、その思いを伝える記録報道「ヒバクシャ」が始まって、10月で20年になりました。 田中博子記者は初任地の広島で平和取材を始めました。核兵器の廃絶を求め、病と闘いながらも証言活動を続ける被爆者。「どうすればその言葉を、その熱意とともに伝えられるのか」。考え続けてきました。 ある被爆者を取材したときのことから振り返ります。被爆者の覚悟田中博子(社会部大阪グループ) 「死にとうない、まだ死ねんのよ」 15歳の時に広島で被爆して顔や手に大やけどを負い、渡米して27回もの手術を受けた山岡ミチコさん(2013年に82歳で死去)が06年、入院先の病院のベッドで、声を絞り出した。 意識をもうろうとさせながらも、かっと目を見開き、鬼気迫る表情だった。 世界中の核兵器が廃絶されるまでは、と証言活動を続けていた。 これほどの覚悟で被爆者は語っているのか。初任地の広島で平和取材を始めたばかりだった私は心が震えた。 先輩記者から山岡さんの担当を引き継いだ05年春、初めて広島市内の自宅を訪ねた。 話題が核兵器を巡る世界情勢に及ぶと私はしどろもどろになり、「もっと勉強せにゃいけんね」とぴしゃりと言われた。 「広島の記者は世界に目を向けなければならない」との自覚が芽生えた。 翌06年8月、山岡さんは脳梗塞(こうそく)で倒れた。入院先の病院を見舞うと、ほおは痩せこけ、髪は真っ白になり、ベッドの名札を見ても本人と結びつかなかった。 意識がもうろうとする中でも私の顔を見据えて、証言を続けることへの執念をあらわにした。 その後、驚くべき回復を遂げて一時は証言活動を再開させたが、13年に肺炎で亡くなった。同じ苦しみ、二度と誰にも 「ヒバクシャ」が始まった06年当時、10~20代で原爆に遭った人はまだ大勢が健在で、「あの日」の記憶は鮮明だった。 それらの証言からは、原爆に人生を狂わされたことへの怒りとともに、二度と誰にも同じ苦しみを経験させたくないという強い意志を感じた。 連載開始当初から歴代の記者が取材をつないできた坪井直(すなお)さん(21年に96歳で死去)は20歳の時に広島で被爆。死線をさまよいながら奇跡的に助かったが、戦後は被爆を理由に結婚差別を受け、放射線障害によるがんなどにも苦しんだ。 中学教師として子どもたちに被爆体験を語り、04年から広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の理事長を務めた。 証言活動のかたわら、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米したり、核実験に抗議して他の被爆者と原爆慰霊碑前で座り込みをしたりしていた姿を思い出す。 やがてヒロシマの顔となり、世界の核を巡る状況に心が折れそうになる周囲の人々を「ネバーギブアップ!」と言って鼓舞し続けた。 2週間に1度の点滴と投薬が欠かせず、広島市内の県被団協の事務所を訪ねると、顔色が悪くつらそうだったことが何度もある。 「命を削って」とはこのことを言うのだと思った。母の胎内で放射線を浴びた 同じく連載開始当初から、私は広島県三次市の岸君江さん(25年に78歳で死去)の取材を担当した。 母親の胎内で原爆の放射線を浴び脳や体に障害を負って生まれた、原爆小頭症の被爆者だった。 05年に毎日新聞の取材に初めて実名で応じるまで、被爆について語らずひっそりと生きていた。 生まれつき股関節が脱臼していた。幼いころから病弱で、頭や体が小さいことをからかわれたという。 …Google検索で「毎日新聞」の記事を優先的に表示できます。【前の記事】自慢の姉ちゃんを奪った原爆 張本勲さんが晩年まで抱いた怒り関連記事【最新記事】