毎日新聞 2026/8/30 11:30(最終更新 8/30 11:30) 有料記事 1533文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷資料を調べる司馬遼太郎氏=熊本で 1943年秋、大阪外国語学校で学んでいた福田定一、後の司馬遼太郎は学徒出陣した。戦車兵となったものの、日本軍の主力だった97式中戦車は、米戦車などに比べて装甲が薄く火力は弱かった。 他の学徒兵同様、司馬も「何のために死ぬのか」を考え続けていた。日本を守る、子どもたちを守る--。そんな気持ちであったことを、他のコラムなどで書き残してもいる。 関連記事 太平洋戦争開戦は「集団的政治発狂」 司馬遼太郎の問い 骨董のごとき兵器では必敗 戦車士官だった司馬遼太郎は看破した「大本営の人」の無慈悲な一言 司馬の戦車部隊は栃木県佐野市に駐屯していた。本土決戦では、相模湾などに上陸してきた敵軍を撃退すべく、南下する方針だった。 「東京方面からの避難民とかち合い、混雑するかもしれない。その時、どうしたらいいのか」 司馬にそう問われた「大本営の人」は<轢(ひ)っ殺してゆけ>と言い放った(「石鳥居の垢」=新潮文庫『歴史と視点 私の雑記帖』収録)。 この言は「同胞を守るために」と、自分の死を納得しようとした青年にとっては衝撃的に過ぎただろう。 ただ、司馬が聞いたとする「(大本営の)相当な戦術家」による無慈悲な放言については「本当にそんなことがあったのか」と疑う向きもある。戦史に精通している現代史家の秦郁彦氏はその真偽に迫った。 まず司馬がこの体験に触れたコラムなど7件を挙げ、微妙な相違点があることを指摘した。たとえば「ひき殺してゆけ」問答の質問者が司馬自身であったり、「ある将校」だったりする(「司馬遼太郎と戦車」=『昭和史の秘話を追う』収録)。 秦氏はさらに、司馬を直接知る元士官に聞き取りをした。その結果、発言のエピソードは「創作とみていい…この記事は有料記事です。残り813文字(全文1533文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>