毎日新聞 2026/8/13 09:00(最終更新 8/13 09:00) 有料記事 2194文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷鈴木貫太郎内閣の新閣僚=首相官邸で1945年(昭和20年)4月7日、写真部員撮影 81年前の夏、大日本帝国の為政者たちは大きな決断を迫られた。 敗戦を認めるか、それとも戦争を続けるか。 8月15日に至る数日を、当時の意思決定プロセスを照らす一級資料『昭和天皇独白録』の生々しい言葉でたどる。 関連記事: 絶対やってはいけなかった 昭和天皇が戦争末期に頼ったもの 交渉振り返るのもつらい 81年前に昭和天皇を袖にした大国深夜に開かれた「御前会議」 第二次世界大戦末期の1945年7月26日、米英中3カ国は「ポツダム宣言」を発し、大日本帝国に「無条件降伏」を求めた。 日本近海の制空・制海権すら敵に奪われており、敗戦は必至だった。帝国の為政者たちは、米英など連合国と少しでもいい条件で講和しようとした。 本土に上陸した敵をたたき、その「戦果」を交渉のカードとして、中立条約を結んでいたソ連に和平を仲介してもらう。そんなもくろみだった。 8月6日、アメリカは広島へ、9日には長崎へ原爆を投下した。期待したソ連は日本に宣戦布告した。 政府と軍部首脳は、ようやく敗戦の仕方についての議論を本格化させた。東郷茂徳外相は「国体護持のみを条件として、宣言を受諾する」と提案した。だが意見が一致しなかった。 その後、首脳が集まり昭和天皇が臨席する「御前会議」が開かれた。 10日午前0時過ぎ、異例の深夜だった。米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長は東郷案に賛成した。 しかし陸相の阿南惟幾、梅津美治郎・参謀総長、豊田副武・軍令部総長は国体護持と自主的撤兵、戦争責任者の自国での処罰、占領拒否の4条件を付した上での受諾を主張した。「私は赤子を保護出来ない」 敗戦か戦争継続か。鈴木貫太郎首相が天皇に判…この記事は有料記事です。残り1495文字(全文2194文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>