毎日新聞 2026/8/11 09:00(最終更新 8/11 09:00) 有料記事 1499文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷米英ソの首脳が集まったポツダム会談=1945年7月23日 溺れる者はわらをもつかむ――。 太平洋戦争末期の81年前の夏、大日本帝国の為政者たちは、できるだけ有利な条件で連合国と講和しようと四苦八苦した。 終戦に至る運命の日々を、当時の意思決定プロセスを照らす一級資料『昭和天皇独白録』の赤裸々な言葉とともに振り返る。 関連記事: 絶対やってはいけなかった 昭和天皇が戦争末期に頼ったもの幻に終わった近衛のモスクワ派遣 敗戦必至となった日本は、連合国との講和の仲介にソ連を頼った。 1945年6月29日。首相や外相を歴任した広田弘毅は、東京のソ連大使館にマリク駐日大使を訪れた。「満州国の中立化、終戦後の撤兵」と「その他ソ連の希望する諸条件を論議する」などの条件を示した。 日露はかつて旧満州(現中国東北部)の権益を巡って戦争に突入し、勝利した日本が満州進出の拠点を得た。32年にはかいらい国家の満州国を設立させるなど植民地支配をしていた。そこから手を引く、ということだ。 しかし、ソ連は45年2月のヤルタ会談で、英米との密約により対日参戦を決めていた。マリクは本国に伝えると約束したものの、その後は広田が会見を申し込んでも「病気」として応じなかった。 外務省はモスクワの佐藤尚武・駐ソ大使に対して、ソ連のモロトフ外相に会い、広田の申し入れに対する回答を促すように指示した。 が、モロトフはマリクからの詳報が届いたら検討して返…この記事は有料記事です。残り915文字(全文1499文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>