ストーリー 樋口岳大毎日新聞 2026/8/9 05:00(最終更新 8/9 05:00) 有料記事 1740文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷祖母の後田マツエさん(左)と笑顔で写真に納まる当時大学生の小田美貴さん。現在は中学教諭に。生前に十分聞けなかった祖母の被爆体験を知りたいと考え、被爆70年に祖母を取材した新聞記者に祖母の録音音声を求めて問い合わせた=小田さん提供 「ウシロダマツエの孫です」 広島への原爆投下から80年の2025年8月6日、長崎支局でデスクの仕事をしていた記者(樋口)に電話がかかってきた。ちょうど広島市の平和記念式典のテレビ中継が終わった頃だった。電話の女性は、記者が10年前の15年に取材した長崎市の被爆者の孫だという。スクラップ帳を開いて記事を見つけると、すぐにこの被爆者を思い出した。全2回の前編です。後編へのリンクは文末によみがえる記憶 後田(うしろだ)マツエさん。1945年8月9日、長崎の爆心地の南約1・2キロにあった三菱製鋼長崎製鋼所(長崎市茂里町)で被爆した。当時18歳で女子挺身(ていしん)隊として動員され、勤務中だった。記者は15年5月、後田さんから体験を聞き取り、毎日新聞の長崎面に記事を掲載していた。 15年は原爆投下から70年の節目で、毎日新聞は全国の被爆者にアンケートを依頼した。回答者の一人が後田さんで、取材当時は88歳。持病などの回答欄に「狭心症、高血圧、糖尿病」とあり、次女の猪原(いはら)真由美さん(69)が「だいぶ体が弱ってきているので、できれば記者の方に話を直接聞いていただき、断片的に話をするのでまとめていただけたら」と代筆していた。これを読み、記者はすぐに長崎市内の後田さん宅を訪ねた。 記者は、広島、長崎両支局で勤務し多くの被爆者に出会ってきたが、後田さんは特に話しぶりが印象的だった。まるで戦時中に引き戻されたように、あるいは何かが乗り移ったように、身ぶり手ぶりを交え、涙を流し、時には叫びながら言葉を発した。倒壊した工場の下敷きになり、そこからはい出して逃げ惑い、故郷まで帰った情景が、音や登場人物の声と共に、聞いているこちらの目の前に浮かんできた。 記事にしてから、後田さんと連絡を取る…この記事は有料記事です。残り993文字(全文1740文字)後編につづく 「知ってほしか」亡き祖母の肉声に響く思い 中学教諭の8・9関連記事【最新記事】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>